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| 通称 Chapi として親しまれる Albert Ferrer Llopis は、1970年6月6日バルセロナで生まれている。バルセロナ生まれ、バルセロナ育ちの彼は、当然ながら LA MASIA では生活を送っていない。練習場まで15分という自宅をもっているからだ。 「 LA MASIA 」というタイトルではあるが、Chapi のことにはぜひ触れておかなければならない。それはロンドンの Chelsea というチームに移籍している今でも、数多くの地元ファンの心の中に深く刻まれている選手だからだ。Cruyff 率いる、いわゆる「ドリームチーム」に時期を同じくして活躍したからということと、バルサ史に残るであろう数々のタイトルを獲得したという意味からである。 5回のリーグ優勝、2回の国王杯、2回のヨーロッパ・スーパーカップ、4回のスペイン・スーパーカッ プ、カップウイナーズカップとヨーロッパカップを一回ずつ、そして92年バルセロナオリンピックの金メダル。何と16ものタイトルを獲得している。
もうお馴染みとなった Tort は次にように語る。 「小さな9番」として初めて練習に参加した翌日には、2番にポジションを変えられていた。つまり右側のディフェンスである。これについても Tort のコメントが残っている。 こうして Chapi は順調に、背は伸びないながらも、バルサの少年部の全てのカテゴリーにおいて正選手としてプレーしていく。ちなみにバルサのそれぞれのカテゴリーについて説明しておこう。 FC BARCELONA ALEVIN-B 10才前後 1990年1月、Chapi は19才になっていた。バルサB に昇格してから1年半たっている。 結局 Chapi は89ー90の残された半分のシーズンを、Tenerife でほぼフル出場することになる。17試合出場したことにより、1部リーグでの2部とは違う速さと、あたりの強さにもまれながら、成長した彼を Cruyff は見逃さなかった。翌シーズン90ー91が始まる前、オランダでおこなわれるプレ・ステージに彼は呼び出されていた。初のバルサ1部での練習である。バルセロナ生まれ、バルセロナ育ち、つまりバルセロナっ子の彼にとって、それは夢の中の夢の実現であった。 90ー91シーズンから Chapi はいきなりの、文句なしのスタメン選手となる。彼の俊敏さと、瞬発力はじゅうぶん1部でも通用するとよんだ Cruyff の眼に狂いはなかった。このシーズン初のカンプノウでの試合は、Valencia とのものだった。 1991年5月15日、バルサは Rotterdam でカップウイナーズカップの決勝戦 を Manchester.U. と戦い、2−1で負けた。その3日後、リーグの最終戦を地元カンプノウで R.Sociedad と戦う。リーグ優勝はすでに決定しており、試合前にスペインリーグ会長から優勝トロフィーを受け取ることが最大の見せ場になるだけの試合のはずだった。だがこの試合1−3でバルサの敗戦となるや、嵐のようなブーイングが選手に浴びせられたのだ。 デビューから1年半たっている。ここまで何の問題もなく順風満帆にきていたChapi に突然のアクシデントがやってくる。膝の故障だった。緊急手術が彼を待っていた。 Chapi にはクリスマスも正月もなかった。手術後、必死のリハビリに励まなければならなかった。1日10時間、週末もなにもない休みなしのリハビリが始まる。ドクター達は言う「快復の早さは、苦痛と自己犠牲に耐えられるかどうかの、患者の精神的強さ次第である」 Chapi は肉体的にも精神的にも強かった。手術に関わったドクター達と共に、リハビリに加わったスタッフ達も驚く快復ぶりだった。1992年5月3日、手術後半年にしてカンプノウでの復帰を果たす。 Chapi がバルサ B に昇格した1988年は、偶然にもCruyff が監督としてバルサに戻ってきた年でもあった。そしてこの年、二人のタイプの異なる若者が新しくカンテラとなった。一人はCruyff の息子Jordi であり、もう一人はSergi という若者であった。 [ 参考資料 ] Fabrica de Campeones (Toni Frieros) |
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