1 Foot-Ball Club Barcelona の誕生 

私、カンス・カンペルはバルセロナにてフットボールのチームを作りたいと思います。このスポーツに興味のある方は、火曜か金曜の21時〜23時の間に連絡をください。
                         カンス・カンペル

1899年10月22日、「ロス・デポルテス」紙にこのような呼びかけが掲載された。呼びかけたのはカンス・カンペル氏。1874年スイス生まれの彼は、カタラン名をジョアン・ガンペルという。現在のFutbol Club Barcelona(バルサ)の生みの親となる人物である。ガンペルは才能あるフットボール選手であると共に優秀なビジネスマンでもあった。叔父の住むバルセロナに移住してから、「サリア鉄道会社」の主任会計士を勤める傍ら、個人ビジネスとして砂糖やコーヒーの貿易業で一財産を得ることになる。また、スイスのF.C.Zurichの創設者の一人でもあった。

この呼びかけは、ガンペルが予想した以上の反響をうんだ。しばらくすると同じスイス人のオットー・クンズル、イギリス人のガルテリー・ワイルド、パーソンズ兄弟、カタラン人のルイスやテラーデスという「同士」が早速集まってきた。

11月29日、「ロス・デポルテス」紙に呼びかけが行われてから1か月後、最初の重要にして歴史的な会合が催された。フットボールクラブとしての正式な創設が確認されたのである。そしてクラブ理事会の初代会長として、ガルテリー・ワイルドが、選手キャプテンとしてガンペルが選ばれた。クラブ名は、外国人を開放的に受け入れていたバルセロナの街と人々に感謝の意味を込めて、Foot-Ball Club Barcelonaとすることが決められた。

フットボールの世界的広がりは、イギリス人による影響を抜きにしては語られない。19世紀終末から20世紀の初頭にかけて、港町に立ち寄るイギリス人水兵、産業や工業が発達しつつある都市でのイギリス人技術者や労働者によって、各国、各都市でこのスポーツが紹介されていく。バルセロナもそのような街の一つだった。この当時、繊維工業を中心に栄えていたバルセロナは多くの外国人を受け入れていた。したがってガンペルの呼びかけに応じた大多数の人々がスペイン人以外のヨーロッパ人であったことは、それほど不思議なことではなかった。事実、創設者のほとんどが、技術者、会社経営者、従業員、各国領事館員、また何らかの理由でバルセロナに住みついた外国人労働者(多くは紡績工場に勤める労働者)であった。

12月3日、Foot-Ball Club Barcelonaの創設が「ロス・デポルテス」にて発表され、バルセロナ市民の知るところとなる。

12月12日、2回目の会合が開かれた。
Foot-Ball Club Barcelonaとしての存在を社会的にアピールしていくものとして、エスクド(紋章)の必要性が語られた。それはエスクドを見ただけでクラブとしての「主張」と「存在」がわかるものでなければならない。それには、カタルーニャとバルセロナを象徴化したデザインで構成されればよい、と決定された。さらにチームカラーとして、青色とえんじ色が採択される。

このazul(青)とgrana(えんじ)カラーが採択された理由には、二つの説がある。一つは、ガンペルがスイスでプレーしていた時のチームのユニフォームがこの二色だったというもの。もう一つは、ガンペルが職業としていた会計士が、半分青、半分赤の色鉛筆を使用していたところからきたというもの。今となってはどちらの説が正しいか想像に任せるしかないが、いずれにしてもこのチームカラーにより、バルサがアスールグラーナとか、カタラン語でのブラウグラーナと呼ばれるゆえんとなる。

この日の会合はさらに続く。ソシオの会費が2ペセタと設定された。

エスクド、チームカラー、そしてソシオの会費。当時のスペインではまったくもって新しい発想であった。すでに幾つかの小さなフットボールクラブが存在していたが、大部分のそれは「仲良しグループ」的存在をこえておらず、まして同じユニフォームを着用してゲームをするという習慣はおろか、エスクドの所有、ソシオの会費制度、そしてクラブの理事会設立という発想自体考えられないものにちかかった。これらはすべて、スイス、ドイツ、そしてイギリス的発想から来たものであった。スイス人という外国人の呼びかけで、カタラン人、スペイン人、スイス人、イギリス人、スコットランド人などの有志が集まり、地域と密着した国際的クラブ作りを目指す。こうしてFoot-Ball Club Barcelona号は出航し始めた。