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2回目の会合がもたれた4日前、12月8日にクラブとして初の試合が行われた。若きガンペルが呼びかけを行ってから、わずか7週間後のことである。クラブにとって歴史的な日となるこの初戦の相手は、バルセロナ在住のイギリス人チーム。両チームの事情により、各10人でチームが構成された。場所は、ボナノバの街にある旧自転車競技場跡が選ばれ、審判を勤めたのはイギリス人のリーク氏という、バルセロナの中にあってこのスポーツのルールを知る数少ない人物の一人であった。翌日の「ラ・バンガルディア」紙にこの試合のコメントが載せられている。
「昨日の午後、ボナノバの旧自転車競技場で催されたフットボールクルブ・バルセロナと在バルセロナイギリス人チームによるフットボールゲームは、非常に興味深いものであった。北西の弱い風が吹く午後の3時きっかりにバルセロナチームは南西の位置、イギリスチームは北東の位置にそれぞれ集まり、各チームそれぞれ10人の選手が白い線をはさんで対決した。協議の結果、前半はバルセロナチームが最初にボールを蹴る権利が与えられ、試合がスタートした。試合が進むにつれ、バルセロナチームのキャプテンを務めるガンペルを始めワイルド、ロンバなどの選手の個人技が目立ち始める一方、イギリスチームはチームとしてのインテリジェンスが相手より勝り、ボールを支配するようになってきた。この前半にイギリスチームは1点を獲得、バルセロナの方は2回もゴールポストに当たる不運もあって、無得点で終了。後半は開始15分間、イギリスチームが攻めまくりながら追加点を狙うが、もう少しのところで目的を達成できず、一方のバルセロナもガンペルの個人技でチャンスをつかむものの、結局得点をあげることができなかった。」 歴史に残る最初の試合は敗北に終わった。しかし試合内容や結果よりも、はるかに重大なものをクラブ関係者はつかむことができた。それはこの試合によって生まれた、期待した以上の反響である。「ロス・デポルテス」などのスポーツ新聞だけではなく、一般紙を代表する「ラ・バンガルディア」などがこの新しいスポーツの誕生を、一つの社会現象として好意的に評価し、掲載したことである。 一部のマスコミ、あるい知識人といわれる人々のなかで、この新しいスポーツに対して決して良い印象を持っていない部分があった。「新しいものの誕生」によくある現象ではあるが、フットボールゲームに反感を抱く大きな理由は「半ズボンをはいて素肌を見せてプレーしている」ことと、「プレーヤー同士の必要以上の肉体的接触や、時々おこる暴力行為」、つまるところ「下品なスポーツ」であるというものであった。そう、確かにスポーツとは馬術競技やテニスのように、エリート階級のみのものという感覚があった当時としては、これが常識的な意見であったかもしれない。
しかし、一般大衆が受けた印象はだいぶ違っていた。フットボールは比較的裕福な階層の人々によって始められたスポーツではあったが、時間の経過に伴い、人々はこのスポーツが決してエリート階級のみのものではないということに気がついていく。誰にでも気軽に始められるという認識が広がることにより、急速に庶民的スポーツとして、評価を受けていくことになる。
Foot-Ball Club Barcelona の誕生から4、5日して新しいクラブが生まれる。Foot-Ball Club Catalaと名付けられたこのチームは、バルサと違い理事会もソシオ制度もない、言ってみれば「仲良しクラブ」の一つであった。このクラブの特徴は外国人を一切排除し、全てカタラン人を中心にしたスペイン人によってチームを構成していたことであった。次の試合はこのチームが選ばれた。
12月24日におこなわれた試合について、「ラ・バンガルディア」は翌日、再びコメントを載せている。
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