3 ダービー戦 

1900年に入り、FCバルセロナは在バルセロナイギリス人チームやスコットランドチーム、クラブ・カタラ、クラブ・イスパーニアなどと親善試合をおこない、経験を積み重ねていく。そしてこの年最後の親善試合は12月25日、ソシエター・エスパニョーラ・デ・フットボールという新しいチームとのものだった。後にレアル・クルブ・デポルティーボ・エスパニョール・デ・バルセロナ(通称エスパニョール)と名称を変え現在に至っているクラブである。

エスパニョールは、地元バルセロナの大学生達によって生まれたクラブだ。クラブ創立はFCバルセロナより1年遅れの1900年。「レアル」という名の示すとおり、アルフォンソ13世国王の後援を受けていた。創設者達にとってクラブの基盤は、カタルーニャという独立意識の強い地域にあって、それでもあまり「世の中の変化を望まない」考えの人々にあった。カタラン語ではなくスペイン語を日常的に使用し、スペインからの独立・分離を拒否する人々。外国人によって創設されたFCバルセロナが多くの外国人選手を擁したのに対し、エスパニョールは一切の外国人選手を排除した。FCバルセロナがエスクードにカタルーニャシンボル(1910年から現在のエスクードの原型となる、バルセロナのシンボルとしてサンジョルディの赤い十字架、カタルーニャのシンボルとして黄色と赤のセニエーラ)を配したのに対し、エスパニョールは国王の冠をエスクードに示した。
この相違からライバル意識が生まれないわけがない。カタラニスタを自称するバルサファンからみれば、エスパニョールの存在は挑発以外の何ものでもなく、またエスパニョールのファンからみればバルサは反中央意識を煽り、スポーツを政治的に利用しようとしている集団とみえた。

最初のダービー戦である。といっても、試合内容に関して特筆すべきものは何もない。FCバルセロナは控えの選手、それもスペイン人だけで構成されたメンバーで戦い、0−0の引き分けで終わっている。この試合エスパニョールはニッカズボンにベルト、黄色のユニフォームにネクタイという姿でプレーした。

1901年に入り、イスパーニアの名誉会長アルフォンス・マカヤ氏の発案により、マカヤカップが始まる。このカップ戦は、FCバルセロナ、イスパーニア、エスパニョール、タラゴナ、フランコ・エスパニョールというチームでスタートした。翌年にはウニベルシタリ、カタラなどが加わり、1903年におこなわれたバルセロナカップとともに、最終的にはカタルーニャ選手権に発展解消していくことになる。
ちなみにこの当時はまだ「監督」が存在しない。練習方法、先発メンバーの選択、試合における作戦、それらは全てチームキャプテンの仕事であった。FC バルセロナの初の監督の登場は1917年まで待たなければならない。

マカヤカップ、バルセロナカップ、そしてカタルーニャ選手権と、年と共に発展していくスペインフットボールだが、同時に過剰なまでのファンの応援が時には暴力事件として社会問題にまでなってしまうこともあった。特に、FCバルセロナとエスパニョールの異常なまでのライバル意識が爆発するのは、時間の問題だった。

1909−1910のシーズン、最初の「暴力ダービー」事件がおこる。地元で戦うエスパニョールは、FCバルセロナを相手に1点リードしていた。しかし前半終了間際、FCバルセロナも1点を返し同点とする。その得点直後、信じられないことが発生する。エスパニョールを応援する若者達がグランドに進入し、審判のバラットを囲み脅迫し始めたのである。身の危険を感じたバラットは、ゴールはハンドによるものだったという口実のもと、FCバルセロナの得点を無効にする。そしてFCバルセロナの選手は前半終了の笛を待つまでもなく、抗議の意思を表すためにグランドを去ってしまった。

カタルーニャ地方に生まれたいくつかのクラブが、経営危機などの原因によりクラブ運営が困難になり弱小化していくなか、FCバルセロナとエスパニョールとの対抗意識は日増しに強くなっていく。争いの口実はもはや何でもよかった。試合中におこる選手同士の暴力的なプレーに始まり、ファン同士の諍い、両チームの理事会員による口論などが、試合の度に社会的問題になり、それは政治的問題にまで発展していく。

1924年11月23日おこなわれたダービー戦で、軍部の介入を誘う歴史上初の事件がおきる。試合の前半、FCバルセロナの選手サミティエルが、エスパニョールの選手に暴力的なプレーをしたという審判の判断により退場になったのが事の発端であった。この判定に納得できない数多くのファンが抗議の叫びとともに、グランド内にコインをはじめあらゆる物を投げ込んだため、試合は続行できず没収試合となる。その後、報道機関を通じて両クラブ首脳陣による醜い争いが展開され、お互いにこのような結果になったことに対し批判を続けたのである。そして結局、軍事当局の裁断により、試合は改めて観客をいれずグランドを閉鎖した状態でおこなうべし、ということになった。

この事件の1年前、スペインでは軍事革命がおきていた。