4 軍事クーデター 

Foot-Ball Club Barcelonaが誕生した19世紀の終末の社会状況は、一体どのようなものだったのだろう。
イギリスを筆頭とするヨーロッパ諸国がアフリカやアジアに植民地政策を進めているなか、スペインは15世紀から支配してきた植民地からの逆襲を受けていた。特に1895年に起きたキューバ独立を求める反乱に対し、スペインは軍隊の増強という形で応えたが、結局はアメリカの干渉によりキューバはおろか、フィリピンまで失う結果となってしまう。国政は弱り、国内ではカタルーニャなどの地方で独立運動の動きが盛んになっていた。
カタルーニャのなかにあって最も裕福なクラスは熱狂的な王制主義者であった。彼らの、マドリ中央政権やブルボン王朝に対する強い支持は「貴族」称号の授与という代償行為によって償われ、中央政権に対しさらなる忠誠心を培っていた。カサミラやカサバトリョなどの建築物を設計したガウディのパトロンとして知られるグエルは、そのような階級を代表する一人であり、アンチ・カタラニスタ思想を形成していた。一方、カタルーニャ独立主義思想を形成していたのは、医者、弁護士、会計士、建築家といった専門職についている人々や、中小企業や商店の経営者であった。そして労働者階級はといえば、大多数の労働者がアナーキズムの強い影響下におかれていた。

1923年、プリモ・デ・リベラに率いられたクーデターがおきる。マドリとバルセロナで並行して進められたこの計画は、スペイン全体を覆っていた政治危機状況をついて実行に移された。カタルーニャ方面軍司令官プリモ・デ・リベラは9月12日の夜、戒厳令の布告とともに権力の掌握を宣言した。そして15日、アルフォンソ国王は彼をマドリに迎え首相に任命する。
プリモ・デ・リベラは「政治」に対し憎悪をいだき、ワインと女性にうつつを抜かす「政治家」に軽蔑心を持つ典型的な軍人であった。「私は自分が、取るに足りない人物だということを自覚している。ただ、自分自身を『管理』できない政治家が、我が2千万国民を統治することができないのは神の摂理である、ということを知っている人間である」権力把握後最初の、全国民に訴えた声明である。

このクーデター政権は、時とともにカタルーニャにおける民族運動の弾圧を加え始める。1925年、公文書でのカタラン語が一切禁止となったのをはじめ、多くの禁止事項が定められた。そのような状況の中で、FC バルセロナも決して無関係ではいられなかった。
・スタジアムの中でのカタルーニャ旗の使用禁止。
・クラブ関係者及びソシオの名簿の警察当局への提出の義務付け。
・クラブの名において行われる行事では、スペイン語のみ使用する。
・優勝の際に行われるモンセラの教会(カタルーニャ人の信仰と民族意識のシンボルとしてあった)での記念行事は、あくまでもスペイン選手権がらみのものでなくてはならず、決してカタルーニャ独自のトーナメントに対して使用してはならない。
・またモンセラに行くときに使用されるバスは一台一台、最低2kmの車間距離を保たなければならない。
などいうものであった。

そんな折り、FC バルセロナはクラブ・ジュピテル相手に親善試合を計画する。1925年6月14日のことだった。カタルーニャ音楽を実践するオルフェオ・カタラが外国でのツアーコンサートを終え、バルセロナに戻ってきていた。そのカタルーニャ音楽に対する偉大な成果を讃えるための親善試合であった。だが、それを知ったプリモ・デ・リベラは、その動機となる「オルフェオ・カタラの偉業を讃える」セレモニーは認めないとし、単なる親善試合としてのみ許可すると発表する。軍事政権のカタルーニャ民族に対する迫害は、平和的なセレモニーにも手綱を緩めることはなかった。

ラス・コーツス・グランドには1万4千人の観衆が集まり、貴賓席は多くの政治家や文化人、フットボール関係者で埋められていた。このシーズン、FCバルセロナは公式戦、親善試合を通じて抜群の成績を残していたことと、権力による「セレモニーの禁止」通告が、人々に更なる関心を与える結果となった。試合は3−0でFCバルセロナの勝利に終わるが、そのことは別に歴史に残るほどのことではない。

ハーフタイムに、イギリス艦隊所属の音楽隊がでてきた。ちょうどバルセロナ港に寄港していたので、この親善試合に協力を申し出てくれていたのだ。シーンとするグランドに演奏が始まった。マルチャ・レアール(スペイン国歌)が流れる。すると観衆の一部から湧き出たブーイングが、突如としてグランド全体に広がっていった。その反応に驚いた貴賓席の人々は、国歌が流れているのに立ち上がる事さえ忘れてしまっていた。だが、この反応に最も驚いたのは演奏している楽団であった。「曲を間違えたのだろうか?」と思ったのかどうかはわからないが、ブーイングが更に強くなる中、演奏曲をイギリス国歌に変えたのだ。するとどうだろう、ブーイングが止み、笑いと共に大きな拍手が起き始めた。

「FCバルセロナの6カ月間にわたる活動停止とともに、ラス・コーツスの6カ月の閉鎖を命じる」。軍部が蜂起し権力を握り、政治を動かしていた時代の出来事である。時の権力者にとっては、重大な「反乱行為」であった。カタルーニャ地方軍のミランス・デル・ボッシュ将軍は、FCバルセロナに対する制裁措置を発表する。「反乱行為」が発生してから10日後のことであった。

クラブ会長のジョアン・ガンペルはカタルーニャからの一時追放を余儀なくされた。