5 ラス・コーツス 

ミランス・デル・ボッシュ将軍によって閉鎖されることになったラス・コーツスは、プリモ・デ・リベラに率いられたクーデタが起こる1年前の1922年にオープンされている。2万人をゆうに収容するこのグランドは、当時のヨーロッパにおいても最大のものの一つに入った。

ガンペルの夢は、自分たち専用のグランドを所有することだった。1909年から使用しているインドゥストゥリアグランドは借地であった上に、6千人しか収容できず、年とともに膨れあがってくるファンの要求を満たすにはすでに入れ物自体が小さくなってしまっていた。1921年、ガンペルは再び会長に就任していた。そして彼は12月8日、ボスケ劇場にて「クラブ臨時総会」を招集する。議題は「新しいグランドの建設」である。当然のことながら問題は資金繰りであった。敷地購入とグランド建設工事費、莫大の資金が要求される。ガンペルとクラブ理事会はこの問題をクラブによる「債権」の発行という方法をソシオに提案する。ソシオに経済的負担を与えるが、方法はこれしかなかった。

臨時総会は大成功を遂げる。自分たちのグランドを建設するためには経済的援助さえ惜しまない、という大多数のソシオがこの提案を受け入れたのだ。

この臨時総会によって得た結論は次のようなものだった。
年利5%の100ペセタ債券をクラブが発行する。5千ペセタ以上出資してくれたソシオには、貴賓席のシートを永久に使用できる権利を与える(108人のソシオがこの権利を得た)。ソシオの年会費を48ペセタに値上げする。ただしこの金額は1万人目までのソシオであり、1万1人目からのソシオは60ペセタとする(1万人目のソシオは翌年の9月18日に登録された)。ちなみに、現在のソシオ年会費が自分の指定席を持っているソシオだと大体6〜7万ペセタ(約3〜4万円)だから、5千ペセタというのは現在の500万ペセタくらいに相当するものと思われる。

1922年2月19日、理事会の中から選ばれた「新グランド建設」協議会のメンバーが、3カ月間にわたってこれはと思えるすべての土地を調査した結果、ラス・コーツス地区にある土地が最適だという結論に達する。この日、新グランド建設に関する全ての契約書類に、ガンペルの名においてサインされることになった。総工費は991,984ペセタであった。

1922年5月20日、驚くことに工事開始からわずか3カ月で新グランドが完成する。名前はラス・コーツスと名付けられた。余談になるが、これから約30年後バルサのグランドになるカンプノウは「新しいグランド」という意味だが、他のヨーロッパのクラブが所有するグランドには、クラブ創設者の名前や、栄光の時代のクラブ会長の名が付けられるのがほとんどであるのに対し、バルサは一切個人名を付けたことがない。それはクラブがソシオ、バルセロナ市民、カタルーニャ州民、そして世界中に広がるバルサを応援してくれる人のものである、という発想が理由になっている。

話しは再び、ラス・コーツスの「6カ月間の閉鎖」に戻る。
クラブの6カ月間にわたる活動停止ということは、つまるところクラブの「消滅」を意味していた。クラブ運営費(クラブ本部の運営費に始まり、職員、選手に支払わなければならない給料)そして何よりもラス・コーツス建設により抱えた莫大な返済は、クラブが停止状態にある限り不可能な事であった。理事会員の会合は時の権力に禁じられていたものの、彼らは秘密の会合を重ねる。現状の分析を行ない打開策を探さないことには、クラブの消滅は時間の問題であった。そして、ソシオにクラブの現状を知らせることが、何よりも重大なことだという結論に達した。

ソシオのリアクションは素晴らしいものであった。すべての登録されているソシオが、ソシオ更新をすぐさま行っただけではなく、いくらかのお金の貸し付けを申し出る人まで続出した。ジョベール銀行は、クラブ停止期間の各種の支払いを可能にするために、5万ペセタのクレジットを提案してきた。経済的援助だけではなかった。カタルーニャフットボール協会は、カタルーニャ選手権の開始をFCバルセロナの停止期間が解けるまで延期する、との通達を各クラブに送る。それは独裁政権における「FCバルセロナの消滅」という目論みに対する反旗であり、制裁に苦しむFCバルセロナに対する連帯の挨拶でもあった。

こうしてFCバルセロナはクラブ最大の危機をどうにか乗り切ることに成功する。しかし、今後の「クラブ生存」を考えなければならない。このような政治状況の下では、いつか再び同じような制裁を受けることは明らかであった。何よりも「クラブ生存」を大原則として事にあたなければならない。理事会は会長のガンペルが、ほぼ「国外追放」に近い処分を受けたことにより、新しい会長を迎えなければならなかった。

新会長にアルカディオ・バラゲールを迎えた。彼はアルフォンソ13世の個人的友人であった。結果的に、理事会による見事な「政治」であった。新会長の働きでクラブへの制裁期間が3カ月に縮まった。