6  リーガの開始

1929年、スペインリーグ(以下リーガ)が開始された。開始に当たって、2月から6月までの期間をかけて次の10チームによる総当たり戦方式と決められた。また12月と1月にはスペインカップ、その他に9月から11月にわたりFCバルセロナはカタルーニャ選手権を戦うことになる。

FCバルセロナ
レアル・マドリ
アスレティック・ビルバオ
レアル・ソシエダー
アレーナス・デ・ゲットー
アトレティコ・マドリ
エウロッパ
レアル・ウニオン・デ・イルン
ラーシング・デ・サンタンデール
エスパニョール

久しぶりにエスパニョールの名がでてきたので少し触れておこう。プリモ・デ・リベーラが政権をとってからというもの、カタルーニャにおいて時の権力の「シンボル」として、エスパニョールは存在するようになっていた。つまり、権力側はカタルーニャを代表するチームとしてエスパニョールを支持していた。政権のパンフレットと化していた「ラ・ベルダー・デポルティーバ」紙は多くのエスパニョールシンパの新聞記者と編集者によって構成されていた。当然のごとく日常的にFCバルセロナへの攻撃最前線基地であった。「分離主義者チーム」これがFCバルセロナに与えられた名前だった。

FCバルセロナは初戦、サンタンデールに行っての試合を0−2で勝ち、さい先の良いスタートをきるものの、第2戦ラス・コーツスにマドリを迎えながら1−2と敗れる。その後も良い試合をしたかと思うと、どうしようもない内容の試合を展開したりして、終始不規則なままシーズン前半を6位で折り返す。だが後半に入り快調にとばすFCバルセロナはあと残り1試合というところで、首位を走るマドリに2ポイント差と追いつく。最終戦はアレーナスとのフエラでの試合であった。前日の試合でマドリはビルバオに2ー0で負けており、この試合に勝てばもちろん引き分けでも最終戦逆転優勝になる。この試合、FCバルセロナは完璧な試合展開をみせ0−2と勝利を収め、リーガ開始1年目にして初の優勝チームとなった。

だが開始1年目のリーガでの優勝は、それほど重要視されるものではなかったようだ。当時は、今と違ってリーガ自体が大々的に評価されるものではなかったからだ。それはこの年の5月に行われた「バルセロナ万博」に人々の興味がいっていたということも影響し、リーガ優勝による爆発的なお祭り騒ぎはなかった。ちなみにバルセロナに初の地下鉄が登場したのもこの年である。

さて、世の中はどうなっているか。
1929年に入り、独裁反対の動きが徐々に激しくなってくる。3月には学生が大学制度改悪に反対しストライキを展開し、8月になると社会党などにより独裁反対、議会民主主義樹立の運動がおこり、独裁政権を揺さぶり始めた。一方、独裁政権側としては、こうした反対運動だけではなく、経済的政策にもいきずまりを見せ始めたことで、大きな打撃を受けていた。ペセタの下落と共に、資本の国外流出が景気後退に拍車をかけたのだ。こうした状況下で、金融界を始め経済界さえもが独裁に見切りをつけ始めてきていた。軍と国王は決断を迫られていた。1930年1月、アンダルシア軍が「反政府」を唱え立ち上がったことがきっかけとなり、国王はプリモ・デ・リベラに辞任を促した。この月の28日、独裁者は辞任を宣言する。
この独裁政権崩壊後、政治状況は「主」を持たぬまま陸軍将軍が内閣を組織したかと思うと、1年後には海軍の提督が政権をとっていた。一方プリモ・デ・リベラ独裁に反対して戦っていたかつての学生、知識人、そして労働者達の動きは、「王制反対」運動へと発展していく。そして1931年4月、統一地方選挙が行われる。大方の予想に反して、この選挙の勝利者は共和主義派であった。アルフォンソ13世は、この結果を知ると足早にスペインから脱出し亡命を計る。

1930年10月13日、ガンペルの死という悲しい知らせがやってくる。それも自殺であった。ここ何年かソシオの前に顔を出さなくなっていたガンペルだが、個人的事業のいきずまりと1925年の「追放事件」が彼のその後の人生を決めたといわれている。彼の死はバルセロナの市民に、そして何よりもフットボールファンに大きなショックを与えた。バルセロナのモンジュイクで行われた葬儀には、何千人という人が最後のお別れに駆けつけたという。バルサ理事会はクラブ創設者に敬意をはらい「ソシオ番号1」と共にガンペル家を永久ソシオにする。

独裁政権の終了と共和制時代の到来は、民衆に自由を取り戻させた。しかし同時に、街はデモ隊と政治討論の場と化し、「政治の季節」となった状況にあって、フットボールはインパクトを弱めていく。カタルーニャのあらゆる意味においてシンボルであったFCバルセロナも、ソシオの減少傾向にも現れるように、もはや「情熱」を発散する場所ではなくなっていた。人々は街頭へ、街頭へと出ていく。

ガンペルの死は、一つの時代が終わった象徴的事件でもあった。