8 市民戦争前夜 

FCバルセロナ会長ジョアン・コマのクラブ再編成構想失敗の原因は、いくつかの要素が複雑に絡み合った結果にあった。まず、活躍が期待される新たな選手の補強作戦の失敗、そして以前のレベルを保つ保証のないまま20年代に活躍した選手を放出してしまったこと。この放出によって、選手会と理事会の関係がぎくしゃくしてしまったこと。また、クラブの経済的問題も決して無関係ではなかった。1931年の地方統一選挙で共和党が勝利した結果、人々はグラウンドに行くよりも集会場に行くことを選んだ。その結果、グラウンドにはわずかな観衆しか集まらなくなったことと、ソシオ数の減少によりクラブ収入が大きく減ったこと。さらに、チームの不振が観客数の減少に輪をかけてしまったことなどである。

ここに一人の人物が登場する。ジェセップ・スニョール・ガリーガ。砂糖の輸出入業を営む大富豪の父と、カタルーニャ愛国運動家の叔父をもつ一家に生まれ、市民戦争勃発後ファシスト軍に暗殺されるFCバルセロナの会長となる人物でもある。

スニョールは1925年にバルサソシオとなっている。プリモ・デ・リベーラが軍事クーデターを起こしてから2年後、つまりアンチ・カタラニスタの激しいキャンペーンが起きていた時代である。27歳になっていたスニョールは、ソシオになることにより政治的自己表現をしたということであり、父の事業を継ぐよりは、叔父の持つ思想の方を選んだ。そして1930年、「ラ・ランブラ」という週刊誌の創設者となる。この「ラ・ランブラ」はスポーツ記事を一般のニュースとほぼ同等に扱い、サブタイトルとして、『スポーツと市民意識』と名付けた、当時としては始めての試みといっていいほどの新鮮なものであったという。事務所をランブラス通りの一角(現在のレストラン・ヌリア)に設置し、FCバルセロナがアウエーの試合の時は事務所前に大きな掲示板を掲げ、そこに集まった大勢の人々に刻々と試合の展開をアナウンスしていった。ちなみに現在のバルサファンが優勝の度にランブラスに集合して喜びを分かち合う習慣は、ここから来ているという。

スニョールは創刊に関して次のよに語っている。
「我々が『スポーツ』と言うとき、民族、熱望、楽観主義、健康な戦いを意味する。そして『市民意識』と言うとき、解放されたカタルーニャ、自由主義、民主主義、寛容さ、そして熱狂的な魂を指す」

1935年、スニョールはクラブ会長に選ばれた。ガンペルが1925年に会長を辞任してから6代目の会長となる。会長就任挨拶で彼は次のような言葉を残している。
「政治的立場がはっきりしている人物、例えば私のようなものがFCバルセロナの会長に就任することは、クラブにとって非常にデリケートな事だということはわかっています。でもこれだけは約束します。私の行うことはクラブの会長として、あくまでも純粋にクラブの現在と将来を考えたものであろう、ということです」
スニョールは、すでに政治家であった。カタルーニャの行政府ジェネラリタの大多数は共和主義左派政党(エスケラ党)によって占められていたが、スニョールはエスケラのリーダーであった。

1936年6月28日、FCバルセロナはラーシング・サンタンデールとの親善試合をラス・コーツスで行いシーズンを閉じる。翌日からは夏休みである。一方バルセロナの街は7月22日から26日までの「人民オリンピック」の準備に余念がなかった。「人民オリンピック」は、その年ベルリンで行われるヒットラー総統のもとの世界オリンピックに対抗して催されるものであった。7月16日「人民オリンピック」組織委員会は全世界に向けて宣言する。
「バルセロナで開かれる人民オリンピックは、平和実現のために全世界の若者の団結を表明するものです。」

左翼勢力の台頭に危機感を抱いていた右翼的な将校達によって作られた「スペイン軍人同盟」は、密かにクーデター計画を練っていた。この計画には王制派、伝統主義派などが直接関与し、ムッソリーニの援助も受けていた。左右両陣営の闘争により混沌とした状況の中、左翼系警察官が殺された事に対する報復行為として、右翼王制派の大物カルボ・ソテーロが左翼によって暗殺された。クーデター計画を実行に移す絶好の機会であった。

1936年7月17日、軍事クーデターがスペイン領モロッコで起こる。親と子がイデオロギーの違いによって殺し合いになる、最も悲惨な同国人同士による内戦。スペイン市民戦争の悲劇が始まった。