9 市民戦争に突入 

17日にモロッコで、18、19日本土各地で起こった軍事クーデターは、市民の武装した抵抗により内戦へと突入していく。モロッコ軍を指揮していたフランコにとって、スペイン首都のマドリッドをいち早く陥落させることは非常に重要なことであった。何故ならこの反乱に協力体制をとっていたドイツ、イタリアに「フランコ政府」を承認させるのに首都を獲ることが必要条件となっていたからだ。だがマドリッドは人民の武装をもって応え、侵略を許さない。内戦は長期化の様相をたどっていく。

すでに夏休みに入っていたFCバルセロナの理事会員達は、内戦突入後、クラブとしての対応を急がなければならなかった。クラブ職員、ソシオへの参加を呼びかけ、7月31日に「FCバルセロナ理事会」を招集する。ちなみにバルセロナの街は圧倒的な人民軍によって守られ、まだ戦渦にはみまわれてはおらず、各地区最前線に応援軍を送っているような状態であった。

大多数のソシオの参加をみたこの理事会で、次の事が承認された。まず、前シーズンに選出された理事会員の再承認、そして自国に戻っている外国人選手を一時休職にして自国に留まらせる。来シーズンに向けて新たに契約した選手に関しても、当分のあいだ自国に留まってもらう。国内の選手は、戦渦の前線となっている地方の選手はそこに留まらせる。フットボールクラブとしての活動を状況が許す限り、平常通りおこなっていく、という事であった。

理事会が開かれた1週間後、クラブ会長スニョールはマドリッドに向かった。このマドリッド行きの理由に関しては歴史家によって意見が分かれる。クラブ会長として、ある選手の契約交渉のために行ったという説と、マドリッドの周りを防御しているカタラン人民兵への激励という説。状況からみれば後者の方がもっともらしいといえるかも知れない。いずれの理由にしても、彼はマドリッドでの用事をすませた8月6日、カタルーニャ旗を付けた公用車に乗りマドリッドを出発する。だがマドリッド郊外のグアダラマ山脈に向かう途中、突然フランコ軍による検問に出会ってしまう。彼の持っていた情報によれば、この辺は未だフランコ軍によって占拠されてないはずではないか。しかし、検問は明らかにフランコ軍のものであった。彼は有無を言わず拘束され、その場で銃殺される。

8月11日のラ・バンガルディア紙に「スニョール氏が消息不明」という記事が掲載され、少しでも彼の行方の情報があれば協力して欲しいと訴えている。カタルーニャフットボール協会も「一時も早く、私たちの友人であるスニョール氏が元気な姿を現し、政治、スポーツの世界での活躍を期待したい」と危惧を表明した。

市民戦争が終了した1939年9月28日におこなわれた「政治犯の処刑」に関する軍事法廷で、スニョールの死亡について語られている。「左翼のリーダー格であったスニョールは、1936年の8月の初め、マドリッド付近においてグアダラマ国民軍によって拘束され、即時に開かれた裁判によって死刑判決を受け、処刑された」
この2か月後、バルセロナの警察本部が発表した「解放後のバルセロナ」の報告書にもスニョールの名が出てきている。
「スニョールは何年間にもわたって、FCバルセロナの会長を務めた人物である。そしてそのクラブを政治的に利用して、カタルーニャ分離主義を唱えようとした彼の責任は重大である」

フランコ独裁政権時代はもちろん、フランコの死によって迎えた民主主義の時代に入ってもしばらくの間は、スニョールに関する話題は「タブー」であった。スニョールの死から、実に60年たった1996年に彼の死に関する詳細な情報が始めて公開された。

さて、FCバルセロナに話しを戻そう。クラブ会長スニョールの消息が不明になり、暗殺された可能性が濃くなった状況下、理事会は臨時総会を至急開く。この総会で、それまで会計係を担当していたハビエル・カサルスが暫定会長として選ばれ、今後のクラブ方針として、事情が許す限りフットボールクラブとしての使命、つまり試合をしていくという方針が決定された。

そうはいっても戦争中である。全国的規模でおこなわれるリーガやカップ戦は当然のごとく不可能な状態であった。結局10月から12月にかけての「カタルーニャ選手権」を組織することになった。当初20チームの参加が予定されたが、クラブの諸々の事情から6チームでの大会となる。そして翌年1937年「地中海リーグ」がおこなわれる。フランコ軍による占領地域が拡大されていく状況にあって、地中海側の都市は依然として人民軍側が押さえていたことがこの大会を可能にさせた。FCバルセロナを始め、エスパニョール、バレンシア、カステジョンなど8チームの参加を得て、1月から5月までおこなわれている。

しかし、クラブの経済事情は悪化するばかりであった。ソシオの減少による収入の激減、入場券による収入もたかが知れた状態であった。しかも2月からバルセロナの街にも空爆が始まっており、人民軍内部において共産党、社会党、アナーキストなどによる武力抗争が激しくなっていて、かなりの数の死者を出し始めていた。

そのような状況にあって、突然メキシコ遠征の話しが飛び込んでくる。