10 メキシコ遠征 

1937年の4月始め、FCバルセロナは思いもかけないメキシコ遠征の打診を受ける。遠征費、宿泊費、すべて招待側が受け持ち6試合の親善試合に対するギャラが1万5千ドルという、願ってもない条件であった。出国の手続きをすべて済ませたFCバルセロナは5月中旬、戦渦を後にしバルセロナ港から一路メキシコに向かった。

メキシコには多くのスペイン亡命者が、市民戦争開始とともに押し寄せていた。この亡命者達の大部分は、FCバルセロナを「共和国軍チーム」と見て大歓迎する。また純粋にフットボールチームとして、メキシコ人に与えた印象も素晴らしいものだったようだ。8月23日発行の「エル・ウニベルサル」紙は次のように賞賛している。
「私たちにはFCバルセロナがスペインでの最も優れたチームであるかどうかはわからない。だが一つだけ確かなことは、今まで我が国を訪ねたスペインのチームの中で、最も好感のもてるチームであったということだろう。試合に勝った時は決しておごったそぶりを見せず、負けた時には常にジェントルマン。まさに本当の意味でのスポーツマン魂を持ったチームである。」

3週間の予定で組まれたこのメキシコ遠征だが、スペイン本土の戦渦も悪化するばかりの状況を知ることにより、今度はアメリカ遠征が計画された。誰も帰国を急いではいない。彼らにとって、普段よりはちょっと長いバケーションのようなものだった。ニューヨーク・フットボール協会との契約は4試合の親善試合をおこない、すべての経費はアメリカ持ちでギャラは500ドルとなる。この遠征はいたって「平和」なものであったようだ。ヨーロッパや中南米に比べ、アメリカにはまだフットボール自体が根付いていないため、都市での歓迎や、メディアの対応も静かなもので、まさにのんびりとした休暇であった。

すでに9月の末になっていた。最初3週間の予定であった遠征が、4か月にもおよんでいる。「もう帰る時期だ」と、遠征責任者のカルベットは決意する。いつまでも現実から目をそらすことはできない。この遠征によってクラブが抱えていた借金の返済が可能になったものの、いつまでも戦渦を避けて外国にいるわけにはいかない。それはクラブ創始者ガンペルが唱えていた「FCバルセロナは常にバルセロナ市民と一緒でなければならない」というクラブ思想に反する。「よし、帰ろう。だが、このまま残りたい者、バルセロナへ帰りたい者、それは個人の意思で決めるべきだ」。何といっても戦争中のバルセロナの街は死ぬか生きるかの状態なのだ。

遠征に参加した16人の選手のうち、クラブ理事会の遠征責任者達と帰国を決意したのは4人であった。9人はメキシコに戻る意思を示し、3人はフランスへの亡命を決意した。

メキシコ遠征から帰ってきた何人かの選手を含めFCバルセロナは、10月から翌年の1月まで続けられた「カタルーニャ選手権」に参加していく。だが、戦渦はますます激しくなっていく。「カタルーニャ選手権」が終了した3日後、フランコ軍による空爆によってバルセロナ市内で170人の犠牲者がでた。そして更に激しくなる空爆は、3月18日1000人を越す死者をだす。まさに状況は悪化する一方であった。またこの2日前の空爆でFCバルセロナの本部事務所が破壊され、クラブ関係者内に死者こそでなかったものの、クラブ創立以来獲得した300個にわたるトロフィーが破壊されている。

それでも試合は続けられていく。

3月の末「カタルーニャリーグ」が10チームの参加により始まった。シーズン途中で、クラブ維持ができないチームが抜けていく状況を抱えながら、8月の末まで続けられた。そして10月30日、「バルセロナ市杯」と名付けられた新しいカップ戦がスタートする。FCバルセロナを始め6チームの参加を得て始まったこのカップ戦は、ますます激しくなる空爆にもめげず予定通り消化されていった。そして1月の始め、フランコ軍がカタルーニャへの最終的な突入を開始する。が、相変わらず「バルセロナ市杯」は何事もないかのように続けられる。1月8日、最後の試合となる対マルティネンク戦は3−1でFCバルセロナの勝利に終わり、この18日後フランコ軍がバルセロナ市内に入ってきた。

1939年1月、カタルーニャがフランコ軍によって墜落したことにより、共和国政府は事実上消滅した。同年3月末にフランコ軍がマドリに入り、4月1日勝利宣言がおこなわれ、2年半続いた内戦は終わりをみる。

FCバルセロナにとって苦悩に満ちた時代が始まる。