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FC バルセロナにとって最も困難な時代に突入する。
大部分のカタルーニャ人にとって、バルサの存在は一つのクラブ以上のもの、つまり何らかの「象徴」としてあることを軍事政権は十分認識していた。政治的部分での「カタルーニャ独立主義」としての象徴と、民族的な部分での「我らを代表するクラブ」としての象徴。いずれにしても、このクラブの持っている根元的な存在価値を消し去らなければならない。だが、それは急激にやれば、必ず反発があることが予想された。クラブを抹殺する必要はない。ただ疎外すればいい。 ここにバルサの歴史に伝わる一つの逸話がある。
1939年1月26日、ラス・コーツスにフランコ軍がやって来た。目的はラス・コーツスを軍事目的(兵隊宿舎、兵器収納場、タンクや軍事車両の駐車場、etc. )に使用したいというものであった。将校を迎えたのは、メキシコ遠征責任者であったカルベット。彼は訪ねてきた将校に次のように語った。
ラス・コーツスの外ではフランコ軍にとっての「戦争犯罪人」に対する銃殺が続いていた。バルセロナを「解放」した最初の週に1万人が処刑される。そしてその後2万5千人がさらに処刑されることになる。そして4月までに実に45万人もの人々がピレネー山脈を越え、カタルーニャからフランスに渡っている。 2月16日、公共の場でのカタルーニャ語使用が禁止されたのを始め、時間の経過と共に少しずつ権力によるバルサの改変がおこなわれていった。
「Foot-Ball club Barcelona」の名称をスペイン語正式名称に変えなければならない。 1940年3月、それまでのバルサ暫定理事会を解散し、正式な理事会の創設がなされる。会長を始め理事会そのものを決めるのは「スペインオリンピック協議会」と「国民スポーツ協議会」という組織だった。もちろん両組織とも時のファシズム権力の「おかかえ組織」であったことは言うまでもない。ここに初めてソシオの投票以外の方法でクラブ会長が決定されることになる。 エンリケ・ピネイロという侯爵が会長に使命された。彼はバルサのソシオでもなく、それまで一度としてフットボールを見たこともなく、ましてそのルールなど知る由もなかった。だがそんなことは、彼を任命した側からすればどうでも良いことであった。彼はカタルーニャにおける、決して少なくはないフランコ・ファシスト政権の熱烈な支持者の一人であること、このことが重要な要素であった。
マドリッドのスポーツ紙「マルカ」がもともと右翼系のものであったのに対し、バルセロナのスポーツ紙はフランコ軍の登場と共に、ファシスタの指導のもとに運営されるようになっていた。「エル・ムンド・デポルティーボ」紙がバルサの新会長について次のようなコメントをしている。
3月13日、最初のクラブ理事会でピネイロは語る。
今年88歳になるニコラウ・カサウスは、フランコ死後のバルサ指導部で長年クラブ副会長を務めた人物だ。彼は1922年、9歳の時にソシオになっている。次回、彼がこの時代の状況を語る。
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