12 名誉会長ニコラウ・カサウスの想い出

カサウスはこの時代について、次のように回想している。

「一般的に言って、市民戦争はカタルーニャに想像もつかない『対決』を生みました。共和制派対ファシズム、そして左翼同士の抗争です。しかし、最悪だったのはその後やってきた『戦後』です。戦争中は少なくても『正義』や『論理』が存在したけれど、フランコ軍が入ってきてからの『戦後』は、屈辱と忍耐の時代に突入してしまった。特に、共和制を信じて戦ってきた人々には地獄のような毎日でした。私は政治家ではなかったが、カタルーニャジャーナリスト組合を指揮していました。ジャーナリストの基本的権利を守るために、一生懸命戦ってきたんです。そのことがファシスト政権は気にくわなかったんですね。フランコ軍がバルセロナに入って来て間もなく逮捕されました。裁判とは呼べないようなものでしたが、その結果私は死刑囚となってしまったんです。」

FC バルセロナには、世界中に1000以上のファンクラブがある。カサウスは今でも、500近くのファンクラブの世話人として活躍している。まさに「バルサの歴史の生き証人」である。
「結局、刑務所には5年間入っていました。その内の72日間はいつ死刑が執行されてもおかしくなかったんですね。昨日は隣の房の知り合いが死刑台に向かい、今日はその隣の知り合いが、という日が72日間続きました。しかし幸運にも、私は逮捕されてから5年後に執行猶予の身になれました。」

ニコラウ・カサウスみたいに幸運なめにあわなかった多くのカタラン人の中に、ジェネラリター(カタルーニャ州)首相のルイス・コンパニスがいる。フランスに亡命中、ゲスタポに逮捕された彼は1940年バルセロナに送還され、簡単な軍事裁判により即時死刑となった。罪名は「反逆罪」であった。

さて、ピネイロを会長として出発するバルサだが、クラブ理事会もファシストでかためられていた。フランコ支持者のカタラン政治家、軍人、警察官、右翼知識人などによって、「戦後のバルサ」はスタートする。

まず、ピネイロが最初にクラブ会長として手をつけたのは、メキシコ遠征中に亡命した選手を呼び戻すことであった。ところがここに大きな障害があった。時の政府は亡命したスポーツ選手に対し、スペインに戻ってきた場合、6年間の「出場停止」を課していたからである。だが、ピネイロは自身のコネを使い、何とかこの停止期間を数か月に短縮させることに成功する。

フランコは並外れた政治家であった。敗北した共和派の人間を、国土復興の材料として利用する知恵も持ち合わせていた。地方間を結ぶ国道の整備に敗北者たちは強制労働というかたちで使われていく。そしてフットボールも国民の士気高揚の道具として使えると考えた。戦後の日々の生活の苦労や、食糧難の時代に庶民が夢中になれるもの、すべての雑多な日常生活を忘れて没頭できるもの、それがフットボールだった。

フランコにとってバルサは存在しなければならないクラブだった。かつて何回となく問題を起こしてくれたクラブではあるが、政権をとった今、そんなものはどうにでも解決できる自信があった。クラブ理事会内をフランコ派で固め、それでも何か問題がおきた時は国家権力を介入させればよい。だが解体させてはならぬ。それではカタルーニャ人のエネルギーが、政治に走ってしまうという読みであった。

フットボール人気は、フランコが想像していた以上の勢いで復興を成し遂げ、さらに民衆の中に「生活の一部」として定着していく。そしてそれは地元クラブへの愛着心が地方対抗意識を強くすると共に、スペインナショナルチームへの期待が「ナショナリズム」をさらに強くするという効果を生みだしていく。

そのようなフットボール人気という状況の中で、FCバルセロナも決して例外ではあり得なかった。それはクラブが所持する資料をみると一目瞭然だ。

40年代に入ると、バルサソシオ数は驚くほどの急激な上昇を示す。1924年に最高のソシオ数を記録した後、30年には9,587人と減少する。そして共和制時代、市民戦争時代を通じてさらにソシオ数が減少していく(1936年には7,719人、37年は5,248人、38年は4,150人)。そして市民戦争終了と共に、ソシオ数は3,486人まで減少するのである。しかしそれからわずか3年後の1942年には、何と15,400人とソシオ数が急上昇を遂げる。

だがラス・コーツスでの観客席での様子は、以前と比べるとかなり変わっていた。カタルーニャ旗を振りかざすこともなければ、政治的なヤジを飛ばすこともなかった。常に何十人という制服警官と、隣に座っているかもしれない私服警官を、多くのソシオは恐れていた。

しかしラス・コーツスはオペラ劇場でもなければ、クラシックコンサート場でもない。情熱と感動を生むフットボールグランドであった。試合の対戦相手がライバルであればあるほど、グランドに集まったファンは自然発生的な興奮を生み出す。それがレアル・マドリであれば、なおさらのことだった。