13 予測された敗北 

バルサーレアル・マドリ、あるいはレアル・マドリーバルサ戦。国内最高のライバルであるこの2つのクラブが対戦するときに「クラシコ」と呼ばれることがある。「古典的な、あるいは伝統的な一戦」というような意味であろう。この2つのクラブが現在のようにライバル意識をむきだしにするようになるのは、実はこの時代からである。

市民戦争が終わりフランコが政権をとってから、レアル・マドリは文字通りスペイン政府が置かれる首都としてのクラブ、つまりフランコ独裁政権のクラブとしてバルセロナからはみえた。逆にマドリッドからはスペインからの独立を企てる、アカのクラブとしてバルサを見る人が多かった。

スペインカップ(現国王杯)は、フランコが政権をとってからヘネラリシモカップと名を変えていた。ヘネラリシモ(総統、元帥の意味。ここではフランコ将軍を指す)カップ、つまり「フランコ将軍杯」という意味である。

このスペインを代表する両クラブの輝かしい歴史は、同時に「クラシコ」戦での数多くの衝突、紛争の歴史でもある。その一つが1943年のヘネラリシモカップをめぐる「クラシコ」であった。

1943年6月6日、ヘネラリシモカップの準決勝でFCバルセロナはホームでレアル・マドリを迎え、3−0と勝利した。

この年の初め、FCバルセロナは「ここ何年間の審判の不公正」さを訴えてきていた。彼らに言わせると、明らかに不利となる審判の判断が多すぎるということだった。そして彼らにしてみれば、逆にいつも有利な笛を吹かれているクラブがレアル・マドリであった。このクラブの訴えは当然ファン層にも影響を与え、審判のシステムそのものに疑問を持つ人々もでてくる状況であった。

この試合も例外ではなかった。いやそれどころか「クラシコ」ということもあり、3−0と勝っていながらもレアル・マドリ寄りとうつる審判に対する抗議のブーイングは試合中続いた。

そして試合に敗北したクラブのリアクションの多くがそうであるように、レアル・マドリ側も審判に対する批判を試合後におこなう。この批判の最たるものが翌日のマドリッドの新聞「ジャ」に掲載されたエドゥアルド・テウスという人の記事であった。テウスは元レアル・マドリの選手であり、スペインナショナルチームの監督をしていた。彼の記事は長いスペインジャーナリズムの歴史の中で「最も扇動的なコメント」として記録されることになる。

彼のコメントは「ラス・コーツスに集まったバルセロニスタは、終始レアル・マドリの選手に対し罵声と侮辱的な言葉を投げかけた。それは明らかにスペインを代表するクラブに対する侮辱行為でもあった」というものだった。フランコの息のかかっている人物で構成されているFCバルセロナ首脳陣も、さすがにこのコメントに対し抗議声明を出すしまつであった。しかしその後もテウスの批判は続く。
「あの試合の審判は、明らかにバルサよりの判定をしていた。」

そして6月13日。マドリッドに行ってのレアルマドリーFCバルセロナ戦。4時半に始まる試合開始前から、すでにスタンドの雰囲気は異常なものになっていた。

FCバルセロナの公式歴史書によると、この試合の開始前に2人の人物がFCバルセロナ選手を訪れている。一人はスペイン警察長官であった。彼は「あなた方の中には、国外亡命した後に戻ってきた選手がいると聞きます。その方々が今こうしてプレーできるのは、すべて国家がとった特別恩赦のおかげであるということを忘れてはなりません」と選手に向かって言ったという。このメッセージは明らかに脅しであった。それ以外何が考えられよう。試合前にわざわざFCバルセロナの更衣室を、警察長官が訪ねて来ること自体が異常なことであるが、その発言は更に異常である。
そしてもう一人は試合の笛を吹く主審であった。
「私は厳しく笛を吹くつもりです」という言葉を残して去っていったという。

この試合、FCバルセロナは11−1で負ける。歴史的な大敗であった。

マドリッドにおけるメディアの喜びは、想像をこえるものであった。あらゆる「マドリ圧勝」記事が紙面を埋める。その先頭をきっているのは、もちろんテウスだった。日刊紙「ジャ」に次のようなコメントを載せている。

「レアル・マドリの歴史上における最大にして最も偉大な勝利であった。」とレアル・マドリの勝利を評価し「FCバルセロナは、試合開始から守備に重点を置く布陣を配置し、ラス・コーツスでの3点差という有利さを守ろうとしていた。試合開始早々、レアル・マドリは1点を獲得する。それのも関わらず、FCバルセロナはほぼ完璧な守備陣で守りを固める。だが前半35分、再びレアル・マドリがゴールを奪う。これで1点差となりながらも、FCバルセロナの選手は必死の戦いをみせる。だが力の差は歴然であった。前半終了の笛が吹くまでに、レアル・マドリはさらに5点を追加した。」

バルセロナに「ラ・プレンサ」という新聞があった。市民戦争中にも珍しくフランコ軍を支持していたメディアだ。当時、新聞記者ではなかったものの、このメディアによくコラムを書いていた人物がいた。その名をフアン・アントニオ・サラマンチという。彼がこの試合について非常に興味深いコメントを「ラ・プレンサ」に載せている。