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その声明とは次のようなものであった。
「FCバルセロナはディ・ステファノ選手移籍問題で、リーベル、及びアルゼンチン・フットボール協会とすべての面での合意に到達した。ディ・ステファノ選手は少なくても1954年の夏から我がクラブの選手と正式に公表します」 アルゼンチ・フットボール協会との合意は、大きな意味をなしていた。協会法によればレンタル中の選手を他のクラブに「権利を譲る」ことは違法であった。したがってミジョナリオス・デ・ボゴタとレアル・マドリとの合意は無効とされるものと理解された。したがってもしミジョナリオス・デ・ボゴタがディ・ステファノの権利を主張し、FCバルセロナと話し合いがつかなければ、ディ・ステファノは約1年間試合には出られないものの、翌年からの出場は約束されたものであった。 FCバルセロナの完全な勝利だった。これでディ・ステファノがFCバルセロナでプレーする支障はすべてなくなったと思われた。残る問題は、いつからチームの正式な一員としてプレーできるかどうか、それだけと思われた。 ブエノスアイレスからの歴史的な声明から2週間たった。この日、カタルーニャに、バルセロナに、FCバルセロナに、そしてバルセロニスタに、政府のおかれたマドリッドから爆弾が投下される。 8月22日、国家スポーツ委員会が、各スポーツクラブ及びメディアに次のような覚え書きを送る。 国家権力が、恥も外聞もなくその本来の姿を登場させてきた。「フランコ機関」による合法的手段では、すでに勝ち目がなくなったという敗北宣言ではある。だが、それにしても再び大きな壁が突然登場したことには間違いなかった。 FCバルセロナは「フランコの機関」であるスペインフットボール協会に申し出をする。 9月15日、ラジオ・ナショナル放送はスペインフットボール協会の緊急声明を臨時ニュースとして流す。 それから4日後、国家スポーツ委員会も声明を発表する。 FCバルセロナ首脳陣のとる道は二つに一つであった。勝ち目のまったくない国家機関相手に裁判闘争をおこなうか、あるいは提案を受け入れるか。 FCバルセロナ会長マルティとレアル・マドリ会長ベルナベウは、スペインフットボール協会の立ち会いの下、それぞれ契約書にサインをした。 1週間後、FCバルセロナ理事会は解散し、会長マルティも辞任をする。 空席となったFCバルセロナの理事会に、臨時理事会が新たに発足する。スペインフットボール協会により、臨時理事会員が選出された。この臨時理事会は10月23日、ディ・ステファノの一年おきの移動案を拒否し、レアル・マドリに440万ペセタでその権利を譲る。 もちろん多くの疑問点が残されたままだった。 いずれにしても、ディ・ステファノ問題はバルセロニスタに大きな落胆と屈辱を与えた。それはディ・ステファノの加入で、21年ぶりにリーグ優勝を決めるレアル・マドリや、その後の快進撃を目にする度に、さらに大きくなる。
1956年からスタートしたコパ・デ・ヨーロッパ(現チャンピオンズリーグ)に、5連覇の偉業をディ・ステファノのレアル・マドリは果たす。 |
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