21 ディ・ステファノ争奪戦 その2

「リーベルとの最終的合意がみられた」
このニュースは、バルセロナを大騒ぎにしていた。
「クバーラとディ・ステファノが一緒にプレーする」
スペインリーグはおろかヨーロッパ制覇実現が、目の前となろうとしていた。

1953年7月中旬、ファルガス弁護士はコロンビアに入っていた。もちろんミジョナリオス・デ・ボゴタとの最終的な交渉に入るためである。
「ジョアン・ブスケは余計なことをしてくれた」
ファルガス弁護士はそう思った。なぜならミジョナリオス・デ・ボゴタ首脳陣は怒り狂っていたからだ。

ディ・ステファノの身勝手な逃亡に不快感があったのに加え、彼にはクラブに5千ドルという借金があった。もちろん未だに返済されていない。だがファルガス弁護士は、ジョアン・ブスケのおこなったことを丁重に謝罪し、どうにか交渉に入ることに成功する。

ミジョナリオス・デ・ボゴタの要求は予想を超えたものであった。4万ドルの違約金と5千ドルの借金返済。つまり合計4万5千ドルが最低条件だという。ファルガス弁護士はもちろんこの要求を本気にはしていない。交渉次第で半分以下になるだろうということを予想していた。

一方FCバルセロナはこの時期ちょうどベネズエラの首都カラカスに遠征にきていた。カラカス・インターナショナル・カップに参加するためだ。クラブ会長のエンリック・マルティも同行していた。

ファルガス弁護士はマルティに交渉の報告をする。
「4万5千ドルと言ってきてますが」
「クラブが払える額は1万ドルまでだ」

ファルガス弁護士は忍耐強く交渉を続けていく。そしてマルティへの報告は欠かさない。
「煮つまりました。1万ドルに借金の5千ドルです」
「だめだ。我々が払えるのは1万までだ」

その後もファルガス弁護士は、執拗に交渉を続けていく。幾つかの代案も提示していく。例えばミジョナリオス・デ・ボゴタとFCのバルセロナ親善試合。その売上金をミジョナリオス・デ・ボゴタのものとする、というようなもの。これにはクラブ会長のアルフォンソも乗り気になる。なぜなら2,3回の親善試合で有に3万ドルの収入が見込めるからだ。

ファルガス弁護士は、勝ち誇った気分でマルティに連絡をとる。
「現金は一切なし。親善試合のみです」
「だめだ。1万ドルか、交渉打ち切りだ」

ここに来てファルガス弁護士は、今までかすかに感じていたマルティへの疑いが確信となっていく。後に、ディ・ステファノ問題に関してまとめあげたファルガス白書で、次のように語っている。

「なぜマルティ会長は1万ドルに固執するのか? そもそも交渉とは相手あってのものであり、4万5千ドルから1万近くまで下がれば普通は妥協点を探すものではないか? それ以上に不可思議なのは、コロンビアは高度が高すぎるから親善試合ができないとか、スケジュールの都合がつかないとかいう理由で断るということは、一体どういうことなのだろうか? そもそも彼は本当にディ・ステファノをとろうとしていたのであろうか? もしそうであるならば、なぜ私をこんなところまで交渉のために送ったのか? 唯一考えられることは、交渉進行段階で何かが変わったということか? それは上からの、つまりマドリからの圧力がかかったということなのか?」

ファルガス弁護士は突如、帰国命令をマルティから受ける。
「君はよくやった。だがもうバルセロナに帰ってくれ。しばらく休暇をとって、向こうに残っているクラブ首脳陣とは連絡を取らなくていい」

ファルガス弁護士はバルセロナに着くなりクラブへ向かう。再びファルガス白書に登場願う。

「一部のクラブ首脳陣と話しをした結果、次のことが判明した。まず、首脳陣会議では、2万ドルまでの違約金支払いが可能だという結論に達していたこと。そしてそれを、カラカスにいるマルティ会長に伝えたこと。また、その報告をしてから向こうからは一切、こちらに連絡が入ってきてないこと。またクラブのスケジュールは、親善試合をするぐらいの余裕はじゅうぶんにあったこと。」

1953年7月末、ミジョナリオス・デ・ボゴタの会長アルフォンソが、突如マドリッドに到着する。翌日、ディ・ステファノの権利(レンタル期間が残ってる1954年の夏までの権利)をレアル・マドリに譲ったとの表明がされた。

ディ・ステファノ問題は複雑さを増してくる。本来の持ち主であるリーベルの許可なしにレンタル選手の権利を売ることが合法か否か。もし合法だとすれば、レンタル期間が切れる翌年の夏には、リーベルと交渉したFCバルセロナが権利を有するのか、否か。

7月24日、マルカがディ・ステファノ独占インタビューを掲載する。
「ミジョナリオス・デ・ボゴタのやり方にはウンザリだ。私が借金があるなんてウソもはなはだしい。彼らこそ私に借金があるくせに。とにかく私は、FCバルセロナでプレーするためにスペインに来たんだ。もうほっといて欲しい」

一方、FCバルセロナも腕を組んだまま状況を見守っていたわけではなかった。クラブ会長のしていることに疑問を感じていた何人かの首脳陣が、独自に行動をおこしていた。リーベル、及びアルゼンチフットボール協会との交渉を、水面下で継続していたのだ。

そして8月7日、首脳陣の一人がブエノス・アイレスから世界に向かって声明を送る。本来であれば「歴史的な勝利」を意味する声明を。