20 ディ・ステファノ争奪戦 その1

ディ・ステファノをめぐるレアル・マドリとFCバルセロナの争奪戦は一冊の本になるほどの、複雑にしてかつ不透明な部分がある。だがここではできる限り簡潔に、その過程を追っていこうと思う。

前にも触れたが、ディ・ステファノの所属する本来のクラブはリーベルであった。そこでエンリック・マルティを会長とするFCバルセロナは、ディ・ステファノ獲得に向けて三段階の構想を練る。まず第一にディ・ステファノをクラブに来るように説得する。そして第二にリーベルとの移籍交渉をおこなう。最後に第三としてミジョナリオス・デ・ボゴタの承諾を得る、というものだった。

ディ・ステファノ本人の説得と、リーベルの交渉は予想された障害もなくスムーズに進む。後は、ミジョナリオス・デ・ボゴタとの交渉を残すところだけとなる。もちろんリーベルがディ・ステファノの権利を持っているからといって、無料ではすまされる問題ではなかった。ディ・ステファノのミジョナリオス・デ・ボゴタへのレンタル期間は、まだ1年残っている。FCバルセロナはそれ相応の資金を用意していた。

クラブとしては、この交渉役に願ってもない人物がいた。その名をラモン・トリアス・ファルガスという弁護士である。彼の父アントニ・トリアス・プジョーはコロンビアに住んでいるカタラン人であった。市民戦争終了直前、カタルーニャを離れコロンビアに移住している。さらに彼はミジョナリオス・デ・ボゴタの株主の一人でもあった。これほど適切な人物が他にいただろうか。まさにミジョナリオス・デ・ボゴタとの交渉役にぴったりの人物であった。

1953年5月13日、クラブ首脳陣に呼ばれたファルガス弁護士はFCバルセロナの「ディ・ステファノ移籍」に関する正式交渉人として任命される。

ファルガス弁護士は慎重の上に慎重を期して動き始める。彼はディ・ステファノ獲得が意味する重要性を、しっかりと把握している一人であった。「これはきっと国家的問題になる可能性がある」
と彼は思う。そしてこの交渉内容は決して「フランコの機関」に知られてはならないものであることを自覚していた。「フランコの機関」とはもちろんスペインフットボール協会とレアル・マドリである。非常にデリケートな交渉であった。

彼はコロンビアの父に「ディ・ステファノ獲得」の交渉役になったことを、暗号で書かれた電報で知らせている。電話は職業上、一切信用していなかった。常に国家警察機関による盗聴があった時代である。ましてディ・ステファノ獲得を争っている相手はレアル・マドリであった。この電報を送った後、さらに手紙で詳しく事情を知らせている。

「ご存知かとは思いますが、FCバルセロナはすでにディ・ステファノ本人とリーベルとの基本的な折り合いはつけています。ある情報によりますとレアル・マドリも彼の獲得に乗り出しているようですが、すでに我々は一歩も二歩も前を進んでいます。」
「近来我が国(カタルーニャ)においては、フットボールは国民的関心行事となってきております。それはカタルーニャの郷土愛を大勢で共有し、主張する唯一の可能な場となっているからです。したがって、ディ・ステファノ問題は、今となっては国内の重要な関心事の一つとなっております。以上の理由により、国家の無用な介入を防ぐため、暗号文による電報を送ったしだいであります。」

「暗号文による電報」「国家警察機関による盗聴」「国家の介入を防ぐ」等、等。当時の政治状況を知るうえで、貴重な電報と手紙である。

さて、クラブが正式交渉人としたファルガス弁護士の他に、実はもう一人クラブ内の意向を受けて行動している人物がいた。サミティエルの友人のジョアン・ブスケというコロンビア人である。。ディ・ステファノ本人の説得とリーベル側との交渉に当たり「ディ・ステファノ獲得作戦」の第二段階までを担当し、すでに基本的な部分での成功を収めていた。ここまでが彼の本来の仕事であった。

ジョアン・ブスケはそこで身を引くところであった。だが、独自の判断で余計なことをしてしまう。ミジョナリオス・デ・ボゴタとの交渉にも単身、乗り出してしまうのだ。それも強引な作戦で。

ファルガス弁護士がまだコロンビアへの旅立ちを準備している時、ジョアン・ブスケはすでにミジョナリオス・デ・ボゴタの首脳陣との交渉についていた。今となってはわからぬが、ジョアン・ブスケは「移籍交渉」というよりは「移籍承認」程度に考えていたふしがあるようだ。ほんのわずかな違約金を提示し、それを受け付けないならばFCバルセロナはディ・ステファノを勝手に連れていくという強行な手段に訴える。事実、彼はディ・ステファノを説得し、クラブとの話し合いが長引くと見るやコロンビアから連れだしてしまう。ミジョナリオス・デ・ボゴタがベネズエラへの遠征試合に出かけたとき、クラブの了承なしにディ・ステファノはジョアン・ブスケとスペインに飛んでしまうのだ。

1953年5月17日、ディ・ステファノはバルセロナの地を踏む。

ファルガス弁護士は、ジョアン・ブスケとそれを黙認したクラブ首脳陣に疑問を持ちながらも、最終的な処理のために地道に仕事を進めていく。リーベルとは基本的合意にたっしてはいるものの完全ではなかった。最終的なつめをするためにアルゼンチンに向かわなければならない。

リーベルとの交渉はそれほど時間はかからなかった。だがリーベル側には一つの条件があった。
「ミジョナリオス・デ・ボゴタとの交渉をつけること。そしてそれは7月25日までに解決を見なければならない。もしこの期間がすぎた場合は、我がクラブとの合意も無効となる」

リーベルとの了承が「条件(期限)付き」ということは、もちろん公表されない。それは「フランコの機関」に知られてはまずいからだ。遅ればせながら、レアル・マドリも各機関を通じて、クラブに接触を図っている最中であった。
「こちらの持っているカードは、決して敵に見せてはならぬ」
ファルガス弁護士は慎重の上に慎重を期して事を運んでいく。