19 サンティアゴ・ベルナベウとディ・ステファノ 

ベルナベウは1943年にレアル・マドリの会長に就任している。市民戦争が始まった1936年には、彼はすでにクラブ首脳陣の一人として働いていた。だが共和制主義者が多かったクラブ内でファシストとしての告発を受け、拘束寸前のところでフランス大使館に逃げ込み一命を逃れている。その後ファシスト軍の勢いが強くなる頃には、ベルナベウはファシスト軍将校としてカタルーニャ陥落作戦に加わる。
「私はカタルーニャのレコンキスタに参加した。もちろんカタルーニャ独立を叫ぶ一部のアカどもから、スペインの一部としてのカタルーニャに戻すレコンキスタだがね」
戦後、彼は多くの回想記でこう言っていた。

会長に就任してからのベルナベウの夢は、スペイン最大規模のスタディアム、ヨーロッパの中でもほぼ最大の規模を誇るスタディアムの建設であった。一つにはフットボールブームの昂揚により最大限にファンを収容できる大きな入れ物が必要であったこと、そしてもう一つはスペインの中央都市マドリッドの威厳を示す「シンボル」としたかったのであった。

1945年、つまりベルナベウが会長に就任してから2年目にして、彼の夢は実行に移される。もともとフランコの推薦による会長である彼にとって、資金繰りや新建設に必要な申請許可の問題はクリアー可能なことであった。

1947年、チャマルティン・スタディアム(後にサンティアゴ・ベルナベウと改名)が完成する。前回でも触れたが、フランコが死亡する25年後まで3回の例外を除き、コパ・ヘネラリシモ決勝戦が戦われることになるスタディアムの完成であった。

1952年、ベルナベウがディ・ステファノを見たとき、是が非でもマドリ選手として引き抜かなければならないと思った。それはクバーラをFCバルセロナにとられた苦い経験があったことと、レアル・マドリが未だに2回しかリーグ優勝経験がなかったことがあった。ライバルのFCバルセロナはすでに6回も優勝し、さらに勢いづいている状態でもある。
「絶対、バルセロナに行かせてはならない」これがベルナベウの強い思いであったのだろう。

ディ・ステファノはどのような選手であったのだろうか。彼の伝記を書いた当時のジャーナリスト、エドゥアルド・ガルデアーノは次のように描写している。
「グランドすべてが、彼のフットボールシューズに収まるような感じを受ける。彼によって踏まれた芝は、芽を吹き、やがて育っていく。
ポジションを変えながら、体の動きのリズムを変えながら、突如として微風が突風に変わるように、グランドの端から端へと走りぬけていく。ボールが彼の足下にないとき、同じようにリズムを変えながら相手のマークを外し、いつの間にかフリーの状態になっている。
彼は決して下を見ない。常に頭の位置を少しでも高くしようとしているように見える。それはグランド全体の状況を見極め、どこかに開いているスペースがないか、それを確かめているかのようだ。
自陣が攻撃態勢に入るとき、ディ・ステファノは多くのディフェンダーを引き連れて、できる限りのスペースを作っていく。ディフェンダーに囲まれての攻撃指揮官。変化を伴った彼のリズムにより「最後のパス」、そして「最後のシュート」が生まれていく。
トータル・フットボールの概念が生まれるだいぶ前から、ディ・ステファノはそのコンセプトをすでに実践していた最初の選手であった。」

この飛び抜けた才能を持った天才フォワードは、彼の生まれた国アルゼンチンのリーベルでの活躍ですでに名をはせていた。だがリーベルは経済的問題でコロンビアのミジョナリオス・デ・ボゴタにレンタルしなければならなくなっていた。そしてコロンビアでは、ファンタスティックなプレー、イマジネーション豊かな彼のプレーから「フットボールの魔法使い」と呼ばれるようになる。

レアル・マドリにとって、ベルナベウが思ったように「絶対、バルセロナに行かせてはならない」選手であったし、逆の意味ではどうしても欲しい選手であった。政府のお抱えクラブをして君臨しているわりには、チーム成績が圧倒的にFCバルセロナに遅れをとり、これ以上の後退は許されない状態であった。そしてFCバルセロナにとっては、ディ・ステファノとクバーラコンビによる、スペイン国内はおろかヨーロッパ制覇も決して夢ではない、二度とないチャンスであった。

10か月近くかかるレアル・マドリとFCバルセロナによる「ディ・ステファノ争奪戦」は、半世紀たった今でもはっきりしていない事実が多くある。当時の政治状況において、それは余りにも「政治的な問題」と化したからである。