18 シンコ・コパス(5つのカップ) その2

1952年5月25日、場所はチャマルティン(現サンティアゴ・ベルナベウ)グランドでコパ・デ・ヘネラリシモ決勝戦がおこなわれる。試合前の大方の予想は、FCバルセロナ圧倒的優位というものであった。

だがふたを開けてみると、試合展開は予想とはかなり違うものになっていた。試合開始早々、バレンシアは2点を奪取する。前半FCバルセロナは反撃するものの、バレンシアの固い守備を破ることができないまま後半に突入。そしてマンチョンとビラの得点により同点としたFCバルセロナは、一方的に押しまくりながらついに決勝点をあげることができず、延長戦にもつれ込んだ。

延長戦はさらに一方的な試合展開となった。バレンシアの守備陣はすでに守るのに疲れすぎていた。クバーラ、セサー(ちなみにこのセサーのバルサ選手生涯194ゴール数は、未だにクラブ記録である)が相手守備陣を破る。4−2。FCバルセロナ11回目のカップ戦優勝であった。

勢いに乗るFCバルセロナが次ぎに狙うカップは、コパ・ラティナ(イタリア、ポルトガル、フランス、そしてスペインの優勝クラブ同士で争われるチャンピオンズシップ。現在のチャンピンズリーグ)であった。

この年のコパ・ラティナはパリで開催されている。出場チームはイタリアチャンピオンのユベントス・デ・トゥリン、ポルトガルチャンピオンのベレネンセス、フランスチャンピオンのオリンピック・デ・リオン、そしてスペインからFCバルセロナ、この4チームでタイトルが争われた。

抽選の結果、FCバルセロナはユベントスと対戦する。当時のユベントスは世界屈指の強豪クラブとされていた。だがクバーラを擁するFCバルセロナは、マンチョン、クバーラなどのゴールで4−2とユベントスを破る。そして3日後の6月29日、決勝戦の相手は地元フランスのオリンピック・デ・リオンであった。

パルケ・デ・ロス・プリンシペス・デ・パリスのグランドには、フランスチームを応援する大勢のファンが集まっていた。しかしFCバルセロナの応援団も決して負けてはいない。カタルーニャから多くのバルセロニスタが駆けつけてきたの加え、パリには多くの「政治亡命者」がいたからだ。事実この試合ではラス・コーツスの観客席ではすでに見られなくなった光景、カタラン語で声援をおくる人々や、カタラン旗をふる多くのファンがいた。

決勝戦はセサーの貴重なゴールにより、0−1でFCバルセロナが優勝を飾る。

パリから帰還したヒーローたちを迎えたバルセロナの人々は選手を取り囲み、多くのカタラン旗をふりながら町中への凱旋行進をした。その数は1939年1月18日に、フランコ軍がバルセロナの街を占拠するために入ってきた時の兵隊行進よりも、圧倒的に多かったという。

シンコ・コパス(リーガ、コパ、コパ・ラティナ、コパ・エバ・ドゥアルテ、コパ・マルティーニ・ロッシ)を獲得したこのシーズンのことを、古いバルセロニスタは「シンコ・コパスの年」と呼ぶ。

故障に泣かされながらも、クバーラの活躍するFCバルセロナは翌年も大活躍。スペインリーグ、ヘネラリシモカップと2大カップを再び独り占めしたのである。

FCバルセロナが、ヨーロッパにおけるもっとも強豪のクラブとして認識され始める50年代の初頭、海を大きく隔てた南米大陸でも同じように栄光を欲しいままにしているクラブがあった。コロンビアのクラブ、ミジョナリオ・デ・ボゴタである。

コロンビアリーグは1948年のプロ化以来、南米諸国にあってアルゼンチンやブラジル、ウルグアイを抜いてもっともレベルの高いものとなっていた。その中でもミジョナリオ・デ・ボゴタは多くの外国人(8人のアルゼンチン人、ブラジル人、ペルー人、そしてコロンビア人)を擁し、コロンビアの中で最強チームとして自他共に認められていた。1949年から1953年の5年間に4回の優勝を遂げ(なかでも51年には1敗もしていない)、黄金時代を築いていた。その中心になる選手に一人のアルゼンチン人がいた。その名をディ・ステファノという。

このディ・ステファノを擁するミジョナリオ・デ・ボゴタが、1952年ヨーロッパツアーをおこなう。スペインを含む各地を転々としてのツアー巡業であった。当時のFCバルセロナにはクバーラを獲得したサミティエールが、相変わらずスカウト業にせいをだしていた。彼はディ・ステファノを一目見て「これはすごい。クバーラと組ませれば、国内はおろかヨーロッパ中で負け知らずになるだろう」と確信する。しかしここにクバーラの時と同じく、ディ・ステファノに興味を示す人物が登場する。レアル・マドリの会長サンティアゴ・ベルナベウであった。