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| 1957年9月24日、バルセロナは朝から快晴の一日となっていた。この日はバルセロナの最大のお祭りである「メルセ祭」。町中が各種行事で賑わう日だ。だがこの年は違う意味でこの9月24日が記録されることになる。FC. バルセロナの新しいスタディアム「カンプノウ」のオープニングセレモニーがおこなわれた日として。
新しいスタディアムの必要性は、40年代の終わりからすでに言われていた。シンコ・コパスという大偉業とともに、ラス・コーツスはすでに収容能力を失っていた。そしてクバーラ人気はそれに拍車をかけて、新スタディアムの必要性を要求していた。試合によっては、ラス・コーツスに入りきれない何万人というバルセロニスタがグランド周辺を囲む時もあった。 一方マドリの方は1947年に新スタジアムを建設している。その名をチャマルティン(現サンティアゴ・ベルナベウ)といった。その後クラブ成績もパッとしない何年間かが続き、スタディアム建設による経済的問題も抱えるマドリだったが、ディ・ステファノの新加入で一気に状況が変化する。スタディアムは毎試合、ほぼ満員状態で経済的問題は解消されつつあった。しかもリーグ成績も53−54、54−55と連続優勝を果たしていた。 このような状況下にあって、収容能力の問題もさることながら、ソシオに対するアピールとしてもFC. バルセロナは新スタディアムの建設を迫られていた。 ディ・ステファノ問題の発端でマルティ会長が辞任することにより、新会長選挙が1953年におこなわれた。9月14日のことである。この選挙でミロ・サンスという人が会長に選ばれている。彼の選挙戦における公約はたった一つのことに絞られていた。 「我々ソシオは新たなスタディアム建設を望んでいる。それを実現するのが私の役目だ」 そう、ミロ・サンスの目的はまさに新スタディアムの建設であった。彼は歴代クラブ会長としては非常に若い人物だったが、政治力に優れ、エネルギッシュな人物でもあった。もちろん彼が会長になる前の時代から、新スタディアム建設は現実問題として常にクラブ理事会の中で検討されていた。1950年には現在カンプノウがある土地の購入も済ましている。だが常にあった問題は、建設にかかる莫大な資金問題と、政府の建設認可の問題だった。だが、ミロ・サンスは会長に就任していからわずか半年後に、歴代の会長がなしえなかったことを実現する。
1954年3月28日、新スタディアム建設のための第一歩、最初の基礎石配置(日本でいうところの建前式)がおこなわれた。このセレモニーはラス・コーツススタディアムからスタートする。ミロ・サンス会長がバルサの旗を持ち先頭に立って建設現場に向けて行進を開始する。この行進には何と6万人のバルセロニスタが参加したというから、その期待の大きさがうかがわれる。 建設認可の問題は、ミロ・サンスの冴えわたった政治力ですでに解決していた。問題は建設費をいかに捻出するかということで、工事が本格的に始まってからも理事会会議が続いた。銀行を利用してのクレジットはすでに確保されていた。だが、まだまだ資金不足であった。唯一の頼みはソシオの協力。ミロ・サンスはソシオ代表を呼んでの緊急審議会を開く。 「新スタディアム建設のために、我々クラブ理事会はソシオの方々に経済的協力を要請したいと思う。3か月ごとにソシオ会費を払っていられる方には1年分の先払いを、1年ごとに払っている方は2、3年分の前払いをお願いしたい」 ソシオは積極的にこの要請に応えていったという。 1957年9月24日のオープニングセレモニー。その3日前からバルセロナの街はアスール・グラーナの旗や看板でいっぱいとなっていた。クラブの呼びかけに応じた街の人々が窓からバルサの旗を振ったり、多くの商店には青とえんじの垂れ幕が飾ってあった。
カンプノウ(新しいスタディアム)とその後呼ばれることになるこのスタディアムは、当初15万人収容を目的とされた。だが土地問題や経済的問題により、最終的に10万人収容スタディアムとなる。もっともこの時代の観客席はほとんどが立ち見席であるため、実際のところは具体的な数字が発表されていない。大体10万人収容ということだろう。その後、82年におこなわれたスペイン主催のワールドカップ開会式会場となることで、1万5千人分の増築工事がおこなわれている。そして90年代の終わりに観客席がすべて椅子席となったことにより、2001年現在の収容能力は9万8千人とされている。UEFAのメンバーが実際にスタディアムを訪ね、その機能性や安全性を基準に各スタディアムに星の数でそのクラスを認定しているが、カンプノウは世界でも数少ない、最高の5星をもったスタディアムである。 |
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