24 初のスペイン人クラック、ルイス・スアーレス 

1950年代を閉じるにあたって、ぜひともルイス・スアーレスのことについて触れておかなければならない。

ルイス・スアーレスはFC.バルセロナの歴史の中だけでなく、スペインフットボールのこれまでの歴史においても、最も優れていた選手の一人といえるだろう。この天才的セントロカンピスタのジュニアー時代は、デポルティーボ・デ・コルーニャのカンテラとして過ごし、その後、一部にも上がっている。そう、彼はガリシア地方の出身であった。

FC.バルセロナが1954−55シーズンに、デポルティーボから彼を獲得している。移籍料5万ペセタであった。スアーレス、まだ18歳のころだ。今でいうスポーツ・ディレクターでありスカウトも兼ねていたサミティエルは、彼のことを次のように評価していた。

「この子は将来、セサーやクバーラ、そして私の現役時代を超えた選手になるだろう」

だがスアーレスは、決してFC.バルセロナでは爆発することなく終わってしまう。60−61シーズンを最後にFC.バルセロナを離れインテル・デ・ミランに移籍することにより、彼の天才的な才能が開花する。

だがもちろんFC.バルセロナに在籍中も、非凡な選手であったことは間違いない。彼の自然なポジションはインテリオール・イスキエルド(中盤の左)であった。テクニックはもちろん一流、スピードも群を抜いたものであり、いわゆる「難しいプレーを、簡単に思わせる」才能をもっているプレーヤーであった。

スアーレスはFC.バルセロナの選手として7年間プレーした。だが彼の悲劇は、クバーラと同じ時代を過ごしたことだろう。クバーラは年と共に力が衰えてきてはいたものの、バルセロニスタにとっては絶対の存在であった。スアーレスのFC.バルセロナ時代の悲劇がここにある。彼はいつもクバーラと比較される役についてしまう。「絶対の存在」に比較されていることにプレッシャーを感じる若きスアーレスであった。そのプレッシャーが原因かどうか、安定したプレーが続くことがなかった。ある時は素晴らしい活躍をしたかと思うと、次の試合にはミスだらけの試合展開となる。

そのようなスアーレスにさらにバルセロニスタからのプレッシャーがかかってしまう。彼はまだ若かったのだ。しかも常に移籍を臭わせる選手の1人であった。事実彼には多くのオファーがやってきていた。将来が大いに期待された選手でありながら、ついにファンに受け入れられない選手としてFC.バルセロナを去ることになってしまう。

60−61のシーズン、スアーレスはインテル・デ・ミランに移籍した。クラブとしては移籍させたくない選手であったが経済的事情がそれを強いる結果となる。

カンプノウが完成してすでに3年たっている1960年、クラブは莫大な借金返済に苦しんでいた。ソシオの協力によって集まった資金も底をついていた。なぜならスタディアムの建設費が当初の予想を大幅にオーバーしていたのだ。銀行からのクレジットも限度があった。インテルから来たスアーレスのオファー金額は、理事会にとってのどから手が出るほど必要なものだった。インテルはスアーレスの移籍料として2千5百万ペセタのオファーをだしていた。

スアーレスに誰よりも強い興味を示していたのが当時のインテルの監督、エレニオ・エレーラだった。彼は元FC.バルセロナの監督でもあったから、スアーレスのことを人一倍知っている人物であった。次回ではこのエレーラのことに触れようと思う。なぜなら2年ちょっとのFC.バルセロナにおける監督生活という短い期間にも関わらず、バルサ百年史の中に強烈なインパクトを残していった人物であり監督であるからだ。

さて、スアーレスはインテルの選手として10年間過ごすことになる。その間に2回のヨーロッパカップを制している。インテルの全盛期をその中心選手として活躍したのだ。そしてスペイン人では初の、そして唯一のバロン・デ・オロを獲得している。

1971年、彼はサンプドリアに移籍し2年プレーした後、現役生活を終える。その後、1990年のイタリアワールドカップではスペイン代表の監督を務め、現在はインテルのスポーツ・ディレクターとして活躍している。彼の進言によりインテルは01−02シーズン、バレンシアからエクトール・クーペルを獲得している。スアーレスは言っている。

「クーペルは私の最も尊敬した監督であるエレーラにどこかスタイルが似ている」