25 魔術師、エレニオ・エレーラ 

レアル・マドリの快進撃は続く。56−57、57−58とリーグを制覇しただけではなく、コパ・デ・ヨーロッパも2年連続優勝していた。一方FC.バルセロナも、コパ・デ・フェリア(現UEFAカップ)のトーナメントで第一回優勝クラブとなっていた。だがリーグでは勝てない。レアル・マドリに圧倒的な差をつけられてしまっている。

1958年の春、FC.バルセロナは新監督にエレニオ・エレーラを迎える。後に魔術師と呼ばれることになる人物である。

エレーラはアルゼンチン生まれながら、それまでの人生の大半を北アフリカ諸国で過ごしていた。フットボール選手としての派手な実績は持っていない。だが、各人種が混じり合っての選手時代の経験が彼のフットボール学校となったという。アフリカの人々、フランス人、イスラエル人、スペイン人などと一緒になってプレーし生活したことが、監督としての大きな財産の一つになった。

エレーラは、まるで精神科医のような監督であったらしい。FC.バルセロナへの監督就任が決まってから、まず一人一人の選手と個人的な会話をもっている。そこで彼が得た印象は「敗北主義」を各選手が抱えているということだった。確かにマドリはあらゆる意味で素晴らしいチームとなっていた。スペクタクルなフットボールで、向かうところ敵なしと次々にタイトルを獲得していたのだ。だがエレーラが得た「敗北主義」の原因はそればかりではなかった。試合に勝つのも負けるのも時の権力のご機嫌次第という、当時の風潮からくる選手の諦めというものも感じていた。エレーラはあらゆる手段を駆使して、選手の精神構造を変えることが第一だと考えた。

彼は最初の記者会見で次のように語る。
「私の監督経験の中で、最高のメンバーを誇っている素晴らしいチームだと思う。フットボール選手としてのレベルの高さもさることながら、グランドを離れてからも人間性豊かな選手ばかりだ。我々のライバルチームであるマドリは確かに素晴らしいチームではあるが、我々は彼らと対等に戦える力を十分に持っているだろう」

エレーラから発する言葉やしぐさは、まさに魔術師という感じのものだったらしい。彼は選手の更衣室に、とある「お茶」を用意していた。試合前に、例外なくすべての選手がそれを飲むことを義務づけられた。それがアラブから来たものなのか南米から取り寄せたものなのか、それはエレーラのみ知る「お茶」であった。その「お茶」は、精神的な静けさを与えるものだということしか選手は知らない。

そして試合開始15分前、エレーラはグランドに選手と一緒にいる。魔術師は選手一人一人の目を見ながら問いただしていく。

「我々はどのように戦わなければならないか?」
「お前はどのように戦っていきたいか?」
「我々は試合に勝利できるか?」

エレーラを中心に輪になって囲んでいる選手一人一人に問いかけ、終わる頃にはすべての選手は汗まみれになっていたという。そして突然のエレーラのサインでその輪は崩れ、みな自らの内に怒鳴りながら走り散っていく。

「この試合は勝つ!」
「オレ達は勝つ!」
「勝つぞー!」

彼のシステムはデイフェンスとキーパーの間に一人スイーパーをおくもので、ディフェンスはすべて相手選手のマークを義務づけていた。そして中盤から上の選手はすべて攻撃に、という構想。そのディフェンスを務めるのはカンテラ出身者。彼らには「お国のために」とハッパをかける。中盤から上はスペイン人と外国人。彼らには「ゴールを入れれば給料が上がる、勝てばさらに給料が上がる」といってやる気を出さしていたという。

魔術師エレーラは、レアル・マドリ全盛期の50年代後半から60年代において、2年続けてリーグ優勝するという奇跡をおこす。その後の歴史からみれば、ほんの一時のオアシスにすぎなかったとはいえ彼の大偉業であったことに変わりはない。

エレーラがたった2年でFC.バルセロナを去る原因となったのは、第一にクラブを取り巻く人々による権力抗争の犠牲者となったことがあげられるだろう。カンプノウ建設による年ごとに増加していく借金をめぐり、首脳陣内部による分裂と反首脳陣グループによる権力獲得に向けての抗争。それには監督も決して無関係でいられなかったこと。そして第二に、彼の異常なまでに傲慢で誇り高い性格から、メディアやソシオとの対立を生んでしまったこと。さらに第三として、スーパー監督にありがちな「お山の大将」気分は、当時の大スターであったクバーラとの確執を生んだこと。そして最後の決定的な要因は、経済観念に優れている(金にウルサイともいえるが)エレーラは2年の間、常に経済的な問題で首脳陣ともめていたことがあげられるだろう。このような状況の中、インテル・デ・ミランからの願ってもないオファーが送られてきた。

インテル・デ・ミランで指揮をとることになったエレーラは、64年、65年と2年続けてコパ・デ・ヨーロッパを制す。そして世界一を決めるコパ・インテルコンティネンタールにも2年連続優勝を決め、インテルの黄金期を築く。古くからのインテルファンは、今でも彼のことを「インテル・デ・ミラン最高の監督」として偲んでいるという。