26 ベルナの悲劇 

1956年から始まったコパ・デ・ヨーロッパは、5年連続してレアル・マドリが優勝していた。国内はおろか、ヨーロッパにまさに敵なしのレアル・マドリ。6連覇を狙うマドリは1960年11月9日、国内のライバルであるFC バルセロナとコパ・デ・ヨーロッパの試合をおこなう。ホームアンドアウエー方式のこの大会、初戦はサンティアゴ・ベルナベウでの戦いであった。

FC バルセロナにはすでにエレーラ監督はいないものの、過去2年連続リーグ優勝を決めている。
「果たして、FC バルセロナにヨーロッパチャンピオンを倒すことができるかどうか?」
誰しもがそう思っていた。

ベルナベウでの試合は2−2のスコアで終わる。

それから2週間後の23日、カンプノウは試合開始1時間前から立錐の余地もなくバルセロニスタで埋まっていた。
「ひょっとすれば勝ち上がれるかもしれない」
人々はそういう思いに変わっていた。

2−1でFC バルセロナの歴史的勝利となる。なぜ歴史的か、それはコパ・デ・ヨーロッパという大会が始まってから、初めてレアル・マドリが優勝することなく途中で姿を消していったからである。翌日のマルカ紙には次のようなタイトルが一面を飾る。
「バルセロナ、コパ・デ・ヨーロッパからスペインを消し去る」

初の優勝を狙うFC バルセロナにとって、一番難しい関門は突破できた感じであった。それを証明するかのような次の試合だった。1961年3月8日、カンプノウでのスパルタ・デ・プラガ相手の試合は4−0と圧勝し、アウエーでも1−1と引き分け問題なく次のラウンドに進む。だが次のセミファイナルとなるハンブルゴ戦は簡単にはいかない。4月12日のカンプノウでの試合では勝ったものの、1−0と最少得点差で、アウエーの厳しい試合が予想された。7万人の観衆で埋まるハンブルゴでの試合は89分まで地元が2−0で勝っていた。だがFC バルセロナは奇跡的にも終了10秒前に、スアーレスのセンターリングを受けたコシスがゴールを決める。試合終了のホイッスルが鳴ったときには2−1。

現在のルールであれば、FC バルセロナのアウエーの得点によりこれで勝利となるが、当時はそうならない。180分間を戦った時点での総合得点があくまでも問題だった。総合得点は2−2。延長戦もない時代だから、第3戦目をニュートナルな場所でおこなうことで決着をつける。

5月3日、ブルッセルのヘイセルグランドにおいて、どちらかが勝つまでのデスマッチがおこなわれた。この試合、FC バルセロナは幸運にも1−0と勝利をおさめる。こうしてFC バルセロナにとって初の決勝戦進出となった。念願のヨーロッパチャンピオンを目指しての戦いが始まる。

決勝戦は5月31日スイスのベルナ、相手はポルトガルの名門ベンフィカと決まった。

ところがこの月のFC バルセロナは揺れに揺れている。まず決勝戦の5日前に、スアーレスのインテルへの突然の「来シーズン移籍契約」が発表される。経済的危機に陥っていたクラブにとって、早急に移籍契約を済ませねばならない事情があった。事実上、このスアーレスの移籍発表がFC バルセロナ理事会の最後の仕事となる。クラブが経済的危機に陥っていることへの責任をとって、理事会は解散決議をする。そしてスアーレスの移籍が発表された翌日、FC バルセロナはエスパニョール相手のカップ戦で敗北していた。この年のリーグ戦では良いところなしに終わっており、しかもカップ戦での地元ライバルクラブによる敗退。クラブを取り巻く雰囲気は、どう見ても良いものとはいえない。こんな状況をもっての決勝戦突入となる。

「ベルナの悲劇」
決勝戦翌日のカタルーニャのプレスは、ほぼみなこのようなタイトルであった。FC バルセロナのシュートは4回もゴールポストに当たり、明らかなゴールチャンスも何回か外していた。そしてベンフィカがあげた3点のうち、1点はFC バルセロナ選手によるオンゴールであった。

試合開始20分、FC バルセロナはコシスのゴールで先制する。試合展開は明らかにFC バルセロナが支配していた。だが32分、ベンフィカのカウンターアタックが見事に決まり1−1となる。そして2分後、ヘンサーナのオンゴールによりベンフィカ1点のリードのまま前半終了。後半に入っても何回もチャンスを作るFC バルセロナだが得点に結びつかないまま、ベンフィカの再度のカウンターアタックにより追加点を入れられる。そして試合終了15分前にFC バルセロナ1点を返すものの、結局はベンフィカの固い壁を崩すことなく、3−2のスコアーで「ベルナの悲劇」は幕を閉じる。

FC バルセロナにとって、クバーラとスアーレスという超クラック選手を二人抱えながらのこの敗戦は、その後に迎える「暗い時代」のトンネルへの入り口でもあった。