29 ミケルスとクライフ その1

グルセッタ事件のあった70−71シーズン、FC. バルセロナの監督を務めていたのはビック・バッキンハムというイギリス人だった。彼はこの年だけで、健康上の理由でクラブを離れている。クラブ自体もリーガ4位という成績で終わっており「グルセッタ事件の時の監督」ということでしか歴史には残っていない。だが彼の存在がクラブ史上にかすかに残るとすれば、それはアヤックスの監督を務めたことのある人物であり、若きヨハン・クライフをデビューさせた監督であったということだろう。

ビック・バッキンハムがアヤックスを去った後、リヌス・ミケルスが監督に就任している。奇しくもFC. バルセロナでも同じことがおきる。彼の後をミケルスが継ぐことになるのだ。そしてミケルスにとってアヤックスでの最後の年となる71年にアヤックスを初のヨーロッパチャンピオンに導いている。さらにルーマニア人監督ステファン・コバックスの指揮のもと、アヤックスは72、73年と3年続いてヨーロッパカップを征す偉業を成し遂げる。

バッキンハムの手によって17歳でアヤックスでデビューしたクライフは、ミケルスの時代になると完全にスタメン選手となっていた。デビュー後1年たらずでナショナルチームにも呼ばれている。彼の子供の頃のオランダナショナルチームといえば、決して第一線の国、例えばイギリス、フランス、アルゼンチン、ウルグアイ、ドイツ、ハンガリー、そしてもちろんブラジルなどとは比べようもない状態だった。しかしクライフのナショナルチーム加入時期を境に、オレンジ軍団は急激な成長を見せる。

アヤックスとの契約をまず71年まで延ばしたクライフは、すでにアムステルダムにおける若き大スターとなっていた。彼が師匠と仰ぐ唯一の人物による指揮のもと、アヤックスは「トータル・フットボール」と呼ばれる斬新なスタイルのフットボールを展開していく。

トータル・フットボール、それはテクニック的にも体力的にもすべての選手に同じ高いレベルのものを要求する。それが満たされて初めて頻繁なポジション交換が可能になるからである。そしてそれが最高潮に展開される時、ボールは連続的にワンタッチあるいはツータッチで選手の足下を走り回る。と同時に選手は目まぐるしくポジション交換をおこない相手のマークを外していく。そして突然のリズムのチェンジにより、ワンタッチパスがマークを外しゴールに向かう選手に送られるか、あるいは予想外の立てパス一本がマークを外した選手の近くに落ちる。

14番のユニを身につけたクライフは、名目としてはデランテロ・セントロでありながら、その枠を遙かに越えた存在としてあった。なぜなら中盤に下がっての最終的パスをだすこともあれば、気がつくと右といわず左でのエストレーモとして動いていることもあったからだ。さらに驚くことに、このデランテロ・セントロ選手は、試合の流れによってはディフェンスの位置でボールを拾うこともしばしばであった。

当時のオランダのメディアが次のように表現している。

「クライフがどこのポジションでプレーしようと、我々にとってそれは大した問題ではない。ディフェンスをかわすときのリズムの変化、誰にもまねできない微妙な体の使い方、両足による鋭いシュート、ボールを持ったときの数々のテクニック、そして突然の思いつきのように感じさせる彼独特のインスピレーション、これらのものが失われない限り、どこでプレーしていようといつでも我々に喜びを与えてくれるからだ。」

1971年にバロン・デ・オロを獲得したクライフの勢いは止まらない。翌年はインテル・デ・ミランとの決勝戦で、クライフの2本のゴールでアヤックスは再びヨーロッパを征している。

だがチームのリーダーとして自由奔放にやってきたクライフに対し、チーム内部から批判が起きるのも時間の問題であったようだ。彼の高額な年俸一つとっても、それはチームバランスを壊し選手間の嫉妬となって彼に跳ね返ってくる。そして彼の自信たっぷりの性格、高慢ととられてもしかたのないような彼の態度に、多くの選手が嫌気をさし始めていた。

1973年に3年連続ヨーロッパチャンピオンとなった後、選手たちは自主的な選挙でクライフからのキャプテンマークの剥奪を決める。

クライフにとって居づらくなったアヤックス。彼の心はピレネー山脈を越えたところにあるバルセロナの街へと走る。そう、何年か前にバッキンハムが密かに何回かコンタクトをとってくれたクラブ、FC. バルセロナへの移籍を真剣に考えなくてはならない。しかもあのクラブには彼の師匠と仰ぐミケルスがいるではないか。

だが物事は簡単に彼の望んだようには進まない。アヤックスがFC. バルセロナに提示した移籍料は300万ドルであった。そして肝心のミケルスが、クライフの意に反し彼の加入に反対する。

ミケルスは、300万ドルという移籍料はとんでもない金額だと思っていた。もしそれだけの資金が使えるのなら、クライフを獲るより何人かの良い選手を獲得した方が良策だと思った。特に彼が注目していた選手はバイエルンのミューリェルだった。