30 ミケルスとクライフ その2

バッキンハムを介してクライフが最初にFC.バルセロナとコンタクトをとったのは1970年のことだ。まだバロン・デ・オロを獲る以前のことである。もちろんこのコンタクトは密かにおこなわれている。だがそのお忍び行為も2回、3回となるとさすがにメディアの知るところとなる。クライフが大スターへの道を登り始めると共に、それと比例するかのようにアヤックス選手とのギクシャクした関係が露呈していく。オランダメディアも、もちろんクライフを追いかけている。

クライフ個人をよく知るオランダメディアは、この何回かのFC.バルセロナとのコンタクトを少し違う角度から分析していた。それはこの情報を漏らしたのが当のクライフ関係者だとわかっていたからだ。オランダメディアが予測しているのは、クライフの年俸引き上げ作戦ということだった。年ごとにアヤックス首脳陣と年俸のことでもめていたクライフだ、他のクラブからの彼への関心をプレッシャー材料として用意しているとの認識だった。事実、それはじゅうぶんに考えられることだった。

300万ドルの移籍料。ミケルスはそれを無視してミューリェル獲得に走る。だがFC.バルセロナにとって幸か不幸か、ミューリェルの放出はバイエルン側が拒否してきた。交渉の余地もないということだった。ミケルスはミューリェルを諦めなければならない。

FC.バルセロナにおけるミケルスのここまでの道のりは、決して単純なものではなかった。監督として最初の年となる71−72シーズンにコパ・デ・フェリア(現UEFAカップ)に優勝するものの、リーグ戦においては3位に終わっている。翌年は更にひどい状態で、一つもタイトルをとれずにシーズンを終了している。彼の目指すトータル・フットボールを、そのままFC.バルセロナに持ち込もうとした誤りにはすでに気がついていた。アヤックスでそのシステムが花開いた時点では、すでにテクニック的にも体力的にもそのシステムを展開できる選手たちがいた。だが今のFC.バルセロナにはそのような選手が揃ってはいなかった。システムを良くするも悪くするも選手次第という見本のような状況だった。

ミケルスは今までのどの監督よりも厳しさをもった人物だった。FC.バルセロナの選手にしてみれば、ミケルスのような「自由を奪う」監督は初めての経験だ。どうもやりづらい、と思う。何で私生活にまでいろいろと入り込んでくるのか。オレ達はプロなんだから、グランドで頑張ればいい。それ以外のことには干渉して欲しくない、とも思う。事実、ミケルスは食事のメニューから普段の生活まで干渉してくるタイプの監督だった。したがって、チームがうまくいっている時には問題は出てこないが、ひとたび成績が悪くなると問題が表面化してくる。

72−73シーズンにおきた事件に触れよう。それは、このシーズン二部にいたセビージャとのカップ戦でのことだ。FC.バルセロナはホームアンドアウエー方式のこの試合の初戦、まず相手チームのホームでの戦いとなった。大方の予想に反して3−1でセビージャが勝利をおさめる。やる気のない試合をした選手たちにミケルスは怒り狂っていた。その日の夜、レシャックとレイナが呼びかけ人となり、数人の選手がホテルの一室に集まってカードゲームをしていた。その部屋にはルームサービスでワインやシャンパンが何本か運ばれており、宴会騒ぎみたいとなっている。午前の2時、ミケルスが偶然ルームサービス係がシャンパンを運んでいるのを見て不審に思い、どこに持っていくのかを問いただしたところ、それはレイナの部屋であることがわかった。

突然、部屋のドアがノックされた。皆は当然ルームサービス係が来たと思う。そして誰かがドアを開ける。そこに立っていたのはミケルスだった。

「お前らスペイン人選手は、プロじゃねえ!」と叫んだかと思った瞬間、ミケルスはシャンペンを掴んでテーブルに投げ、ものの見事に瓶はコナゴナとなる。レシャックやレイナを始めテーブルを囲んでいた選手は、一体何が起きたかわからないまま蒼白状態となっていた。

翌シーズン、レイナはAt.マドリに移籍させられた。この事件が理由になったのかどうか、それは当人のレイナでさえわからない。

一方クラブ首脳陣は、ミケルスに内緒で依然としてクライフ獲得を目論んでいた。水面下でのアヤックス首脳陣との交渉が続いている。300万ドルという移籍料を譲らないアヤックス側に、決定的な爆弾を投げつけたのは当のクライフだった。

「もしFC.バルセロナへの移籍を認めないのであれば、私は引退するつもりです」

このみえみえの脅しにアヤックスはビビッてしまった。

1973年8月18日、FC.バルセロナはヨハン・クライフと3年契約を結ぶ。移籍料は100万ドルであった。当時では考えられなかった100万ドル移籍選手の誕生である。トータル・フットボールを目指してきたミケルスと、その核となるクライフが再び一緒になった。

翌日のムンド・デポルティーボは次のように一面を飾っている。
「FC.バルセロナの執拗なアタックがついに報われる時が来た。ヨハン・クライフ、現在のフットボール界における最優秀選手のクライフがついに我々のものになった。アヤックスとの終わりのない交渉がついに実を結び、FC.バルセロナの歴史の一ページに黄金の文字で書かれることになるであろう、クライフの獲得が現実のものとなった。クライフ、彼はすでに我がクラブにおけるリーダーである。」