34 時代は変わる 

1975年11月20日05時25分、フランシスコ・フランコの死が正式に発表された。20世紀のヨーロッパにおける、もっとも長い間続いた独裁者の死であった。

この知らせを聞いた国民の反応は微妙であった。街にはまだまだ国家警察官があふれ、彼らを見張る私服の秘密警察官もいた時代である。本来なら「自由!」を叫ぶカタラン人でさえ、ランブラス通りでは普段通りの日常風景であったという。だがこの独裁者の死により、スペイン社会は徐々に民主主義への転換期へと入っていく。もちろんバルサ理事会内部にも、同じように転換期が訪れてきていた。

ジョルディ・プジョーが、カタルーニャ民族主義思想を基盤とした「統一と団結」という新政党を水面下で結成し、それをフランコ死後表面化させている。その新政党はジョルディ・プジョーが会長を務めるバンカ・カタラーナ(カタルーニャ銀行)と強い絆を持っていた。そしてバルサ理事会のメンバーの中にも、ここ数年にわたって何人かのメンバーがバンカ・カタラーナから入ってきていた。その代表格となるのが、クラブ事務局長を務めるジョアン・グラナードスとクラブ管理委員会のジャウメ・ロッセルの二人であった。二人とも「統一と団結」のメンバーであることは言うまでもない。

フランコ総統が死去した翌月の12月、カンプノウでレアル・マドリとの試合がおこなわれる。グラナードスとロッセルを中心としたメンバーは、この試合前に一つの計画を実行するための会合を何回ももっていた。それはクラシコ戦で、カタルーニャ旗をカンプノウになびかせる計画であった。準備は着々と進んでいた。「統一と団結」党を支持するバルサソシオの協力により700のカタルーニャ旗が縫い終わっていた。

12月28日、カンプノウは超満員を記録していた。レアル・マドリの最大支持者であった独裁者が死亡してから最初の記念すべき試合であった。多くのバルサソシオによって密かに持ち込まれたカタルーニャ旗は、何枚かは警察の手により奪われていたものの、大部分は無事であった。

バルサの選手がグランドにあらわれると同時にバルサイムノが流れる。ここまではいつもの風景と同じだった。だがメインスタンドから、ゴール裏から、突如として700近いカタルーニャ旗が現れ、たなびき始める。このような景色は実に40年ぶりの、そしてカンプノウでは初めての出来事であった。試合開始してまもなくバルサは先取点をあげる。再びカタルーニャ旗が「バルサ!バルサ!バルサ!」の応援と共に揺れる。だがマドリがアッという間に同点に追いつくと、旗は下げられ息の詰まるような静寂がやってくる。その静けさは、まるでフランコの魂がカンプノウを包みかけているかのようであった。だが永遠に続くかと思われたその静寂さが、試合終了1分前に突如として壊れた。それまでグランドにいるのかいないのか、それさえもわからなかったレシャックがゴールを決めたのだ。

そう、レシャックとはそういう選手だった。ファンにとっては最もイライラする選手の代表の一人だった。試合中、大分部の時間は姿を見せない、いわゆる怠け者タイプ選手。だが突如として姿をあらわし、貴重な得点を決める。そのレシャックがようやくあらわれゴールを決めた。その瞬間「ウオー!!!!!!!!!!!!」という轟音とともに、カタルーニャ旗が再びカンプノウになびき始めた。

転換期を迎えている政治とバルサの密接な関係が見られるこの時期である。それを最も象徴的にあらわしたのが、20年にわたって亡命生活をおくっていたカタルーニャ州首相が帰国してきたときのことであった。

1977年10月30日、カンプノウではラス・パルマス戦がおこなわれる。この試合には長い亡命生活を終えてバルセロナに戻ってきた、タラデーラス・カタルーニャ首相が試合観戦に来ることが予定されていた。カンプノウはもちろん満員となっている。そしてジョアン・グラナードスは、この日のために横幅20メートルは優にあるカタルーニャ旗を密かに用意していた。バルサの会長アグスティ・モンタルとタラデーラス首相は、10万観衆のスタンディングオベーションと拍手を受けて貴賓席に登場した。と同時にグランド内を巨大なカタルーニャ旗を持った青年が走り回る。そして観客席のあらゆるところに「お帰りなさい、首相!」という垂れ幕があらわれた。

会長のアグスティ・モンタルが挨拶に立つ。
「非常に厳しい時代にも関わらず、カタルーニャの精神を維持し戦い続けてきた多くのバルセロニスタにとって、今日は特別な日となります。我々バルセロニスタが数々の犠牲を払いながらも、カタルーニャのシンボルとして守り続けてきた我がクラブに、今まさに我々の首相が戻ってきた!」

1977年6月には、内戦以来の初の総選挙がスペインでおこなわれていた。民主主義時代への移行となる第一歩だ。その総選挙に立候補した政党数が、実に157にものぼったといわれている。ほとんどの政党が2、3人の構成者で立ち上げられた小さい政党。一つの政党構成員がすべてタクシー1台に乗れるところから「タクシー政党」とまで呼ばれた。

そしてバルサの会長選挙も、クラブ創立以来初の一般ソシオの投票による選挙となる。時代は再び動き始めた。