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14年ぶりの優勝に酔ったクライフのバルサ。だが1978年にクラブを離れるまでにクライフが勝ち取ったタイトルは、その他には最終シーズンにおけるカップ戦の優勝カップのみだった。
ディ・ステファノが何年にもわたって喜びとタイトルをメレンゲに与えたのに比べ、2年目以降のクライフは大いに期待を裏切るものとなる。バルサはタイトルから再び遠ざかるだけではなく、あの73−74シーズンに見せた攻撃的で魅力あるフットボールの展開も忘れてしまうのである。バルセロニスタはあのシーズン以降、たまに見せるほんの少しの魅力的なフットボールに満足するしかなかった。優勝の翌年に、やはりアヤックスから移籍してきたニースケンスの登場で、さらに強くスペクタクルなチームになるだろうという期待がもたれたにも関わらず、それは裏切られたのだ。 ヨハン・ニースケンスは闘争心あふれる中盤のプレーヤーだった。試合中、止まることを知らず走り続ける彼のプレースタイルは、バルセロニスタのアイドルになるのにたいした時間はかからなかった。だが彼の新加入は今までのアイドルであった一人の選手の移籍という事実を生む。当時は2人の外国人選手しか許されていなかったからだ。デランテーロとして活躍し、多くのファンを持っていたソティルがこのシーズンから抜ける。その結果、これまでのソティル、クライフ、レシャックというデランテーロの軸が崩れ、中盤に新たに入ったニースケンスが活躍しながらも得点力の減少を余儀なくされた。 クライフはオランダにいたころに噂としては聞いていたが、審判のアンチバルサ感情がこれほどまでにひどいとは予想できなかったようだ。特にアウエーの試合での審判の判定には、明らかに疑問を感じさせるものが多かった。「何でこんな不公平な笛を吹くんだ」彼は常にそう思っていたという。その感情がプレーに影響を及ぼしたかどうか、それはわからない。だが、審判との衝突により退場させられることが多かったのは事実である。 ミケルスはクライフに加えニースケンスの加入で、さらにアヤックス時代のプレーに近づけると考えた。だが同じものを作るのであれば、やはり11人必要だった。「トータル・フットボール」はあくまでも一つの理論であるということを忘れてはいけないだろう。一つのチームを成功に導くための、つまり試合に勝利するための一つのシステム、その一つのスタイルが「トータル・フットボール」と呼ばれるにすぎない。そしてどのシステムでも同じように、そのシステムに見合う選手がいなければ成功はしない。タンゴを踊る際に、二人の同じレベルのダンサーが必要なように。そしてフットボールは、11人でプレーする競技であった。所詮、アヤックスで展開された「トータル・フットボール」の試みは限界をもつものだった。 1年目のような活躍を見せなくなったものの、その後も人気には一向に衰えを見せないクライフである。それはクバーラ以来の大スターとしての存在は言うに及ばず、当時の政治状況とも微妙に絡んで彼の存在を大きくしていたからだ。 レアル・マドリとの歴史的な勝利をおさめてからしばらくして、クライフ家に男の子が生まれた。その子の名はジョルディと名付けられる。このカタラン名を自分の子供に付けた理由を、当のジョルディが大人になってから語っている。 そしてジョルディの父、クライフは語る。 「今でも鮮明に思いだすことがある。それは14年ぶりにリーグ優勝を飾った時のこと。街ですれ違う人々がみな同じように言うんだ。『ありがとう!』ってね。『ありがとう』だよ。私は何回も優勝を経験しているけれども、どこでも言われることは『おめでとう!』だった。でも『ありがとう!』なんだ、ここの人々は。ある日、妻と近郊の街に買い物に行った時に、かなり年輩の女性が近づいてきたんだ。そして私の手をとって『ありがとう、ありがとう』と涙ながらに言われた時のことは絶対忘れないだろうね。妻も私も感動してしまって、あの時は何も言えなかった。」 5年間にわたって在籍したクラブでの最初の年にリーグ優勝、最後の年にカップ戦優勝、クライフの獲得したタイトルはそれだけである。それにも関わらず、クライフのサヨナラ試合としておこなわれたバルサ対アヤックス戦はカンプノウを満員にしている。それは彼に対しての感謝の気持ちを伝えるためであり、最後の「ありがとう」という言葉を言うためであった。 「ありがとう、ヨハン、いつかまた会いましょう!」 |
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