|
素晴らしいフットボールを展開し、しかも抜群の成績で優勝をとげた73−74シーズンのFC.バルセロナ。この年はさらにバルセロニスタにとって象徴的な行事が待っていた。それはクラブが創立されてから75年目、つまりジョアン・ガンペルが1899年11月29日にクラブを創立してから75周年に当たる年だった。
11月に入ると、バルセロナの街はアスールとグラーナの色で染まり始める。広い通り、狭い通りをとわず、街のいたるところにアスールグラーナの旗がたなびいていた。バルセロナ市民にとって、それは自分たちのクラブの75周年記念を祝うお祭りであった。 11月17日、記念式典のハイライトはモンセラ修道院で迎える。この修道院には6000人のバルセロニスタが集まっていた。モンセラ修道院は、何百年にもわたって宗教的にも文化的にも、そして政治的にもカタルーニャに大きな影響力を与えてきたところだ。観光的にはラ・モレネータ呼ばれる黒いマリア様がおかれていることで有名になっている。FC.バルセロナがカタルーニャと常に密着して存在していることを示す式典であった。 さてこの6000人の中には、後にカタルーニャ州首相となるジョルディ・プジョーも参加している。彼はフランコ独裁政権の元で何年かの独房生活を経て出所した後、バンカ・カタラーナ(カタルーニャ銀行)の頭取を務めていた。ちなみにクライフがバルサに移籍する際に必要だった100万ドルは彼の銀行からのクレジットだった。 後にジョルディ・プジョーは語っている。 75周年記念日となる11月29日も同じように教会でのミサが主体であった。その日はバルセロニスタ市内にあるカテドラルで、これまで75年の間に亡くなったソシオを讃えるミサをおこなっている。 この年、忘れてはいけないもう一つの歴史的な出来事がある。それはバルサイムノの誕生であった。75周年行事の準備を進めるにあたって、クラブ首脳陣はイムノの必要性を感じていた。クラブを讃える歌、ソシオがソシオ同士として連帯感を感じさせるようなシンボルとしての歌、それが必要だ。多くの作詞者、作曲家の協力により一つの歌ができあがった。それはカント・デ・バルサ(バルサの歌)と呼ばれる。 11月27日、つまり75周年を迎える2日前、カンプノウでは対ドイツ代表との親善試合がおこなわれる。試合開始前、カント・デ・バルサの作曲者の一人であるオリオル・マルトレールが、3600人のコーラス隊を前に指揮棒をふりはじめる。バルサイムノが初めてカンプノウに流れる瞬間であった。 Tot el camp, es un clam
Jugadors, seguidors, グラウンドは大歓声に包まれている 私たちはブラウグラナ (訳 カピタン) FC.バルセロナ(以降バルサ)は港町としてのバルセロナがそうであるように、クラブとしてもすべての人々に開かれたものとして位置づけられていた。南から来た人であろうが、北から来た人であろうが、生まれたところは関係ない。カタルーニャという土地、バルサというクラブに愛情を感じる、すべての人々に解放されたものであった。 |
|