35 民主主義で生まれた初の会長 

1978年5月6日、バルサ初のすべてのソシオ参加による会長選挙がおこなわれた。だが予想に反し、選挙に参加したソシオはそれほど多くはなかった。独裁政権が40年以上も続いた状況での彼らの習慣の中に、選挙というものに対する意識が薄かったことと、選挙管理委員会そのものも慣れていなかったせいもありうまく運営されなかったようだ。

前会長モンタルが辞任を発表し新たに会長選挙がおこなわれるとなったとき、当初は8人の会長立候補者があらわれた。政治的傾向としては左翼あり右翼あり、あるいは民族主義者ありとバラエティーに富んだ顔ぶれが揃う。だが時間の経過と共に立候補者は淘汰されていき、最終的に3人に絞られる。そのうち2人はカタルーニャ民族主義者であり、もう1人は政治政党からの独立を誓う人物だった。その人物こそ、この選挙で新会長に選出されたあと実に22年間もの長期政権を保つことになるジョセップ・ルイス・ヌニェスであった。

ヌニェスはバスク地方にあるビルバオの近くの村で生まれている。その後両親と共にカタルーニャに引っ越してきた、いわゆる「移民」である。70年代、スペインだけではなくヨーロッパ中でブームとなる建設業の波に乗り、この当時はすでに「ヌニェス・イ・ナバーロ」という大きな不動産屋を経営していた。いわゆる婿養子という形で2代目の社長の座に就き、カタルーニャ最大の建設会社となっていた。だがこの46歳になる若き実業家は、バルサ関係者には当然ながら無名の存在である。

しかし、意欲に燃える若きヌニェスの武器は2つあった。それは有り余る財産と彼独自の「政治」である。

「私は今までの自分の人生の中で、一回たりとも特定の政治政党に属したことはない。したがってバルサの会長選挙に立候補するにあたっても、一切の政治的背景はないと言っていい。カタルーニャのシンボルとしてのバルサに、特定の政治政党の介入があってはならぬと考える。それは左翼であろうと右翼であろうと、あるいは民族主義政党であろうと、一切の介入を防がねばならないと思う。なぜならバルサはすべての人に開かれたクラブであるからだ。カタルーニャに働きに来たすべての人々にも、その門を開けなければならない。私のプロジェクトは、カタルーニャのシンボルとしてのバルサを世界的に認知させることである。世界の重要なクラブの一つとして、世界中に認められるクラブにしたいのだ」

バルサのソシオの中には、今でも昔でも多くの移民が存在していた。アンダルシア地方から、ガリシア地方から、そしてバスク地方から仕事を求めいつの間にか住みついた人々。そういう彼らにとってヌニェスの言葉のインパクトは計り知れないものがあった。そしてヌニェスの勝利を決定的にしたのがクライフとレシャックの支持発言であった。

選挙日の数日前、クライフとレシャックが記者会見を開き「ヌニェス支持」の声明をする。ソシオに与える影響を考えると重大な発言である。なぜ彼らはヌニェスを支持したのか。その答えは当時はもとより、現在でもいまだに明らかにされていない。当時の反ヌニェス派から出たのかどうかはわからないものの、いくつかの黒い噂がたつのも時間の問題だった。やれクライフは引退後のビジネスに備えてにヌニェス所有の建物を安く譲り受けただの、レシャックには現役を離れた後のコーチの仕事を確約しただの、噂はつきない。もちろん物証は一切ないところでの話しである。

新会長に選ばれたヌニェスは次のように語る。
「我々の敵は相手クラブだけにしよう。クラブ内に野党という敵を作ってはならない。だがクラブの発展のための批判は当然あるだろう。そういう批判を真面目に受け止め、最大の勝利を目指して戦おうではないか。強いバルサ、勝ち続けるバルサの復権に向けて私は全力をつくす。」
そしてヌニェス時代を飾る最初の理事会を発表する。副会長には会長選挙の対立者の1人であったカサウス(現名誉クラブ会長)と若きホテル王と呼ばれたジョアン・ガスパー(現会長)を選出する。こうしてヌニェス・バルサがスタートした。

クライフが去り、新会長を得たバルサの新しいスタートとなる78−79シーズンが始まる。新監督に元バルサの選手であるフランス人ルシアン・ムレールを招へいし、クライフが抜けた穴をオーストリア人選手ハンシ・クランケルで埋める。クランケルは前年度のボタ・デ・オロ(ヨーロッパ各国でのリーグ戦における最高得点王)をとっていた。

シーズンが開幕してみると、新会長ヌニェスの「勝ち続けるバルサ」という思惑とは違い、リーグ戦ではイレギュラーな試合展開を続けることになるバルサ。いい試合をしたかと思うと、その後2、3試合負け続けるという状態が続く「勝ち続けないバルサ」であった。また国王杯戦でも最初の対戦相手となったバレンシアに敗れ早くも姿を消していた。それでもクランケルは期待通りの活躍を見せ、得点王を獲得していた。

リーガは終わってみれば9ポイントと首位のレアル・マドリに差をつけられ地味に終了している。だが不思議なもので、ヨーロッパでは違う顔を見せるバルサだった。レコパ(カップ・ウイナーズ・カップ)では次々とヨーロッパの強敵を敗り、デュッセルドルフ相手の決勝戦に進んでいた。