36 初のヨーロッパタイトルをかけて

1978年12月にスペイン新憲法が公布され、民主主義は新たな段階に進んでいた。その新憲法の中に「各自治州の独自自治政府の確立を、各州の住民選挙で決める」という項目が見られる。フランコ独裁政権崩壊以降、カタルーニャ地方やバスク地方で大きな大衆運動となって要求されてきたことだった。「自分たちの政府」つまり自治政府の確立がいよいよ現実となる日が近づいていた。1979年10月、カタルーニャ地方とバスク地方で自治憲章に対する選挙がおこなわれ、両地方とも賛成多数で承認される。カタルーニャ州に、ついに自治政府が誕生することになる。

レコパの決勝戦は、その地方選挙の5か月前に戦われている。そのような政治状況の中で、バルサは「勝ち続けない」ながらも本来の意味でのカタルーニャのシンボルとして輝いていた。しかも外国でおこなわれる決勝戦だ。カタルーニャ代表としてのバルサを大いに誇示するチャンスだった。

1979年5月16日、レコパ決勝戦はスイスのバシレアでおこなわれる。

この試合に何と3万人のバルセロニスタがかけつけている。記録的な数の人々だった。それぞれカタルーニャ旗とアスールグラーナ旗を持ち、人々は「ビスカ・バルサ!」「ビスカ・カタルーニャ!」と叫びながら、試合前のバシレアの街を行進する。この時代あたりから国際的問題となっていた「フーリガン」を予想していたバシレアの街の人々にとって、このようなファンを見るのは初めてのことだった。誰も酒に酔いつぶれていない。暴力事件は一切おこらない。何と不思議なフットボールファンであろうか。

この3万人のバルセロニスタの大部分は、バルセロナに事前に集合してクラブ理事会や政治家などとの「壮行会」に参加している。そこで彼らは「我々は1人1人がカタルーニャの外交官として行動しよう」と誓い合っていた。彼らにとって試合の結果はもちろん重要なものであったが、それ以上にカタルーニャ代表のバルサを世界中にアピールすることがより大事であった。

だが新会長のヌニェスにとって、ある意味では将来を決める最も大事な試合となっていた。会長としての彼のしなければならない2つの大事な仕事、1つは経済的危機を乗り越えること。もう1つは当然のことながら「結果」をだすことであった。ファンにとって経済的問題は目に見えにくい。リーグ戦や国王杯、そしてヨーロッパの試合結果が最大の関心事であることはもちろんであった。いくら経済基盤を強固にしたところで、チームが勝たなければ何の意味もないし、会長の座もあやしくなるのがこの世界のきまりだ。

決勝戦の相手はドイツのフォルツーナ・デ・デュッセルドルフ。ヨーロッパカップをかけた決勝戦としては珍しく、フットボールファンにはたまらないゴールの奪い合いが続く試合となる。先制するのはバルサ。開始4分、レシャックからの見事なパスを受けてサンチェスがまず1点を決める。だがその3分後、デュッセルドルフがすぐ同点に追いつく。そして5分後、バルサのウイング、若きカラスコがゴールエリア内に切れ込んだところをディフェンスが引っかけペナルティー。バルサ側の観客席に緊張感が走る。その緊張感が伝わったかのように、スペシャリストのレシャックがこれを外した。緊張感はさらに高まっていく。だがまだ試合が開始されてから12分しかたっていない。34分、カラスコの強烈なシュートをキーパーがはじいたところに、バルサのキャプテンであるアセンシが飛び込み再びバルサがリード。だが7分後、デュッセルドルフはすぐさま同点に追いつくのだ。結局、2−2のスコアーのまま前半を終了する。

後半に入り、試合は前半戦と少し違う展開を見せる。ゴールチャンスはお互いにあるものの、今ひとつのところで決まらない。時間は刻々と過ぎてゆき、得点が入らないまま延長戦の戦いとなった。

延長戦13分、ニースケンスがドリブルで相手陣地に深く入り込み、センターリング。これをレシャックが受けてシュート! バルサ再びリードだ。さらに24分、カラスコがゴール前でフリーになっているクランケルに絶妙のパスを出し、これを決めて4−2とリードするバルサ。試合は決まったも同然だった。だがまだドラマは続く。27分、デュッセルドルフはまたゴールを決める。試合終了までの3、4分、グランドは緊張感に包まれる。デュッセルドルフのすべてをかけた攻撃が続いていたのだ。

審判が試合終了の笛を吹くと同時に、若いバルセロニスタを先頭に続々とファンがグランドになだれ込む。警備員も警察官も一切それを止めようとはしない。しばらくすると、グランドはバルセロニスタで埋まっていた。選手1人1人を大勢のファンが肩車し、グランド内を行進する。至る所でカタルーニャ旗とアスールグラーナ旗がふられていた。バルサ初のヨーロッパタイトルを獲得した瞬間であった。

バシレアでの勝利はすべての予想を超えた反響を生む。ランブラスを中心にしたバルセロナの街の心臓部に、実に100万人を越える人々が勝利を祝うために集まっていた。街のあらゆる通りはクラクションを鳴らしながら走り回る車による渋滞が朝まで続く。もちろん彼らのシンボルとしてのカタルーニャ旗とアスールグラーナ旗が街中を飾っている。

翌日、飛行場まで迎えに行った多くのファンが、そのまま車やバイクで選手の乗ったバスを取り囲むようにして走っていく。市役所広場でおこなわれる優勝歓迎会に合流するために。そして街では大勢のバルセロニスタがフィエスタに入っていた。

「ビスカ・バルサ!」「ビスカ・カタルーニャ!」
それがフィエスタの合い言葉だった。