37 バルサ選手誘拐事件

1980年の夏、バルサは2人の大型選手補強をおこなっている。アスレティコ・ビルバオからディフェンスのアレサンコ(現バルサコーチ)、スポルティング・ヒホンから3度の得点王に輝いているエンリケ・カストロ・キニーである。

シーズン開始当初は順調に思えたチームが、10月に入って急激に下降線をたどっていく。危機感を覚えた指導部は、ドイツの若きスター選手シュステルを電撃的に契約する。この金髪をなびかせる若きチームディレクター、シュステルの働きによりチームは徐々に調子を取り戻し、1981年3月1日、対エラクレス戦に6−0と圧勝する事により首位のアトレティコ・マドリに2ポイント差に追いついていた。シーズン終了までの7試合で十分首位になれる、と思われる勢いであった。

エラクレス戦の試合が終わった後、キニーはバルセロナ空港に奥さんのニエベスを迎えにいくことになっていた。彼女はある用事で実家のヒホンに帰っていたのだが、その日戻ってくることになっていた。
飛行場に着いたばかりのキニーに二人の男が近づいてきた。ポケットに隠したピストルをちらっとキニーに見せた男二人は、用意したワゴン車に乗るように命令する。キニーは従わざるおえなかった。
飛行場に降り立ったニエベスはキニーが来ていないことに不信を抱いていた。こんな事はかってなかったことだ。しかたなくタクシーを拾い自宅に向かったのだが、自宅にはさらなる驚きが待っていた。すべての部屋の電気がつけっぱなしになっている上、そこら中がバケツをひっくり返したように荒らされていたのだ。もちろんキニーはいなかった。

翌日の3月2日、正式な捜索願が警察署に出された。このニュースはあっという間にスペイン全国に伝わり、人々に大きなショックを与えた。
ちょうどこの日の正午、カタルーニャの伝統的新聞社「ラ・バンガルディア」にキニー誘拐グループのスポークスマンと称する人物から電話がはいる。それは「カタルーニャ独立主義者の擁するチームに、スペインリーグの優勝はさせない」というもので、明らかな政治的誘拐を臭わせるコメントであった。そしてさらに1時間後、再びスポークスマンと称する男から連絡がはいる。「我々はスペイン革命党である。選手の解放に3億5千万ペセタを要求する」

キニーが誘拐されてから2日目、バルセロナ郊外のオスピタレ・ジョブレガットという街の公衆電話からキニー署名の手紙が発見された。それには「ケガはしていない。元気だ」という内容のことが書かれていた。「キニー誘拐事件」の衝撃はもはやスペイン国内だけではなく、ヨーロッパ中に広がりをみせていた。

3日目、バルサ指導部は記者会見を招集し、次のように声明する。
「我々は、すでに誘拐グループとコンタクトをとり、彼らの要求する金額を払う用意があることを伝えた。そしてすべての選手の同意のもとに、我々はキニーの解放を条件に、リーグ優勝を放棄するつもりである」

リーグ終了までに残された7試合の最初の試合は、8日のアトレティコ・マドリ戦であった。首位攻防戦である。しかしバルサ指導部は、こういう状況の下に試合はできないという理由で、スペインフットボール協会に試合の延期を申し込む。もっともな理由であった。しかし、協会は試合延期の申請を却下する。シュステルを始め多くの選手が、この試合には出たくないとの意思表明をしたものの、最終的には指導部の説得により、形だけの試合参加をすることになる。試合はもちろんアトレティコ・マドリの勝ちであった。そしてキニーの消息が不明のまま、このような状況がさらに続くことになる。翌週のサラマンカ戦も敗戦、翌翌週のサラゴサ戦は引き分けであった。この時点でバルサのリーグ優勝はほぼ絶望的なものとなっていた。

3月25日、「キニー誘拐事件」は急速な展開を迎える。スイスで誘拐犯グループの一人と思われる男が逮捕されたのだ。そしてその翌日、サラゴサにある自動車修理工場に警察官が押し入り、捕らわれていたキニーを発見する。キニーは、3週間以上にわたる拘束で、精神的疲労は隠せないものの、肉体的にはいたって元気であった。

誘拐犯達が逮捕されてからだいぶ後に、事件の内容が発表された。誘拐犯たちはバルサ指導部に、身代金支払い場所をスイスの銀行に指定したのだが、国際警察機構、スペイン警察、スイス銀行、そしてバルサ指導部の協力の下に、犯人が解明、逮捕できたこと、誘拐動機はあくまで「金めあての誘拐」であり、政治的なものではなかったこと、などであった。

驚くことに、キニーはこのシーズン、自身4回目の得点王を獲得している。だがチームのほうは、事件が大きく影響して首位に4ポイント差で5位に終わった。優勝チームは、若きバッケロがデビューを果たしたレアル・ソシエダー。クラブ創立以来初の栄冠であった。リーグ優勝は逃したものの、カップ戦のほうは決勝戦に進んでいた。6月18日、アトレティコ・マドリの本拠地ビセンテ・カルデロンで行われた決勝戦は、皮肉にもキニーの地元チームであるスポルティング・ヒホンであった。バルサはシュステルとキニーの活躍により3−1と圧勝し、コパ・デ・レイをものにした。翌日の地元紙は次のように紙面をかざっている。
「50万のバルセロニスタが街頭にくり出し勝利を祝い、悪夢のシーズンに最終的な終止符をうった。バルサは今シーズン最高のチームであった。唯一、キニーの誘拐事件が、バルサのリーグ優勝を不可能にした」

キニーは現在、スポルティング・ヒホンのジェネラルマネージャーを務めている。