38 マラドーナを獲れ!

ヌニェス会長は「勝ち続ける」バルサには何が必要か、それを模索する毎日である。そして彼は一つの結論に達する。その後ヨーロッパの裕福なビッグチームが遅かれ早かれ同じ結論に達し、ヌニェスの「政治」を鏡として追従していく道であった。

クラブの成功への道はただ一つ、それはクラックと呼ばれる選手の獲得であった。まだフットボールがビジネスとして成り立つかどうか、そのアイデアさえ存在しない時代である。だがヌニェスはクラック選手の獲得により、チームの成績はもとより、クラブに与える経済的効果も大きいと考える数少ない会長の1人であった。クラックを見に来る観客数の増加による収入増、ユニフォームやグッズ販売による収入増、そして何よりも将来はテレビ放映権が重要な財源の一つになると予測していた。

ヌニェスが会長になる以前から、アルゼンチンのディエゴ・アルマンド・マラドーナという10代の選手をバルサは興味を持っていた。バッキンハムが監督をしていた時代にクラブ通訳職員として働いていたホセ・マリア・ミンゲージャは、すでにFIFAエージェントとなりマラドーナ個人と接触していた。1977年、ヌニェスが会長になる1年前、ミンゲージャは100万ドルという移籍料でマラドーナ側からの交渉を任されていた。だが当時のバルサ理事会は、10代の選手に100万ドルもだすといのは話にもならないとし、移籍話しは事実上解消になっていた。

1978年、ヌニェスが会長になり、ワールドカップが終わったところでバルサは再びマラドーナとの接触を探る。このマラドーナ獲得作戦は、これから実に4年間も続くのである。この作戦を担当するのは代理人のミンゲージャと財政部担当のトゥスケス。そして彼らにヌニェスが命じたこの作戦のテーマは次のようなものであったという。

できるだけ経済的な方法で、なるべく早く獲得せよ!

当然といえば当然だが、都合がいいといえば都合のいいテーマだ。だが4年間にわたる長い交渉となったのは、このテーマのせいではなかった。

当時のアルゼンチンは軍事独裁政権国家となっていた。1980年、バルサの執拗なアタックでマラドーナの在籍するクラブ、アルヘンティーノス・ジュニオールスとの交渉は大詰めにきていた。だが突然、アルゼンチン・フットボール協会はすべての選手の外国への移籍を禁止することを発表する。それは2年後のスペインワールドカップまでという限定つきではあった。これは軍事政権からの圧力であることは間違いなかった。失業者があふれかえり、治安が乱れ、日増しに厳しくなるインフレでアルゼンチンは爆発寸前であった。民衆の日々の苦労を紛らわす唯一のものはフットボール観戦であった。民衆を反乱から遠ざけるもの、それがフットボール。軍事政権は、スター選手を外国に出してはならない、と考えたとしても何の不思議もない。

ミンゲージャは当時のことを次のように語っている。
「私がアルゼンチンでマラドーナ移籍の交渉している当時は、街にいる人々はフットボールの話題でいっぱいだった。私はある日、アルゼンチン軍隊の司令官であるカルロス・ラコステと会う約束をしていた。約束の場所は軍隊内にある整備士学校。2時間ほど待たされていたんだが、アルゼンチンの暗い一面を目撃するにはじゅうぶんの時間だった。近くにある拘置所からは絶え間なく拷問による悲鳴が聞こえてくる。そして明らかに薬漬けにされた囚人が列をなして連れてこられ、飛行機に乗せられるんだ。あとで知ったことだが、彼らはプラタ川上空を飛んでるときに全員落とされたんだ。川の中へね。一番簡単な死刑執行方法だからさ。」

「ラコステ司令官に会ったのは、マラドーナを本当に移籍させないかどうかを直接確かめるためだった。彼は国家が決めたことだから、絶対ださないと言う。だがワールドカップの終わる82年以降は、その限りではないだろうということだった。」

1981年2月13日、マラドーナはボカへとレンタル移籍する。1982年6月30日までのレンタルということだった。

「私はボカとは非常に良い関係をもっていた。マラドーナのレンタル交渉を手伝ったのは、翌年にはバルサへの移籍がしやすくなると考えたんだ。これは計算通りにいった」

一方、財政部のトゥスケスはマラドーナ移籍に必要とされる移籍料の準備をしていた。移籍料はドル単位で発表されるが、実際に支払いとして決められるのはアルゼンチンペソだということがわかっていた。そして彼にアルゼンチンでの異常なまでのインフレ状況も伝わってきていた。そこでトゥスケスはニューヨーク株式市場で800万ドル相当の債権を購入する。こうしてアメリカドルにしておけば、実際支払われる頃にはかなり少ないドルで済まされるという計算だった。

1982年6月、スペインワールドカップ開催まであと1週間というときに「マラドーナ、バルサに移籍」という電撃的なニュースが流れる。6月4日、マラドーナ22歳、バルサへの移籍書類に彼のサインがなされた。4年間にわたる「マラドーナ獲得作戦」はこうして終わりをみる。

その移籍料は天文学的な数字であった。本来の所属チームであるアルヘンティーナ・ジュニオールスに510万ドル、ボカに220万ドル、合計730万ドルの移籍料である。トゥスケスは用意しておいたドル債権をアルゼンチンペソに替え、その現金は軍隊護衛のもとペソ紙幣でいっぱいになったワゴン車で運ばれた。だが実際にトゥスケスが両替したときには、すでにペソは下がり、約500万ドル両替したに過ぎなかった。