39 ディエゴ・アルマンド・マラドーナ

1982年6月13日、スペインワールドカップの開催式がカンプノウでおこなわれる。この日、カンプノウの収容人員はすでに12万人となっていた。

カンプノウ拡張計画も、マラドーナ獲得計画と共になされたものだ。9万人収容ではすでに入れ物が小さくなっていた。ソシオ数の増加と共に、一般のフットボールファンがチケットを手に入れるのも難しい状況となっていた。しかもスター選手が入団すれば、さらにソシオ入会希望者が増えるのは明らかだった。事実12万人収容と拡張してから、わずかな間にソシオ数は11万人近くとなっている。かつてのクバーラ人気がカンプノウを誕生させたように、今またマラドーナがカンプノウを更に大きくした。

ワールドカップでアルゼンチン代表が姿を消してから3週間たった6月28日、マラドーナはカンプノウの芝を初めて踏みその姿をあらわした。82−83シーズンに向けたバルサ選手のプレゼンテーションの日だった。観客席には早い夏の熱い日差しの下、プレゼンテーションとしては初めての5万人を越えるバルセロニスタで埋まっていた。

だが奇妙にも、この日の主人公はマラドーナではなかった。終わったばかりのワールドカップで大した活躍を見せなかったマラドーナより、ユーロ80での素晴らしいプレーを見せたシュステルへの声援がカンプノウを包む。「シュュュュステェェルゥゥ!!!!!!!!!」の大声援が「マラドォォォナ!!!!!!」のそれを大きく上まわる。

バルサ選手として、初めての記者会見でマラドーナは語る。
「選手生活としての正念場が来たと思っている。俺はここにスターになるために来たわけじゃない。バルサの一員として、勝利に貢献できれば良いと思ってこのクラブに来た。マラドーナという名だけでは、何も勝てないことはわかっているつもりだ。優勝チームの一員になれることができれば幸せだ」

だがマラドーナはやはりマラドーナであった。彼は他の選手から見れば、単なるチームの一員だけではあり得なかった。彼がいくら控えめになろうと、彼はマラドーナだった。

バルサのカンテラとして育ち、マラドーナが来てから移動の場合は常に同室だったカラスコは語る。
「彼は個人的につき合っていると、非常に控えめな人間だった。貧しかった少年期が、常に彼の原点になっているイメージを受けた。だがグランドに出ると、自信たっぷりの人間に変貌するのがよくわかった。ボールを扱うコントロールテクニックは、自分が初めて見た完璧な選手だった。マラドーナがボールをコントロールしながら走るとき、あるいはディフェンスをドリブルでかわすとき、それはまるでボールが足にくっついている感じなんだ。あれは最初の合同練習のときだったと思う。彼が初めてボールに触った瞬間、周りの選手の動きがストップしたんだ。すべての選手の目がマラドーナの足下に釘付けになっていた。なぜかって? 彼が繰り広げる色々なボールテクニックを実際に見るのはみんな初めてだったからさ。ああゆう選手はもう二度と出てこないと思う」

マラドーナはブエノス・アイレスの近郊の街で1960年10月30日に生まれている。貧しい家庭の中で育つことになる一人っ子であった。16歳になったとき、アルヘンティーノス・ジュニオールス一部での試合にデビューする。彼の黄金の左足はコーチ陣はもとより、多くの観衆をうならせるのにじゅうぶんな16歳のマラドーナであった。デビューしてから一日一日、彼はアルゼンチンにおける新たなスターとしての階段を登っていった。

彼がまだ18歳のとき、彼の存在がいかにアルゼンチンフットボールファンの中で大きなものとなっていたかを証明する事件がおきる。当時のアルゼンチン代表監督であるルイス・メノッティは、その年に地元で開催されるワールドカップのメンバーにマラドーナを召集しなかった。まだまだマラドーナは若くて経験不足というのがメノッティの理由だった。だがファンは黙っていなかった。連日にわたってメノッティに対する攻撃が続く。アルゼンチンメディアも無視することはできなかった。メディアのメノッティ攻撃はワールドカップ開催前日まで執拗に続いたのである。だが幸運の女神はメノッティにつき、アルゼンチン代表がワールドカップ優勝という功績により「マラドーナ不在問題」は終わりを遂げる。

ワールドカップには出られなかったものの。マラドーナは大スターへの道を急いで登り始めていた。いや、多くのアルゼンチファンにしてみれば彼はすでに世界最高の選手の1人であった。

ワールドカップから1年後、彼は世界中に「マラドーナここにあり」とばかりに晴れの大舞台に登場し勝利をおさめている。それは日本でおこなわれたジュニアー世界大会であった。ここでマラドーナ率いるアルゼンチンが優勝すると共に、彼自身もこの大会での最優秀選手に選ばれたのだ。

そのマラドーナがついにバルサの選手としてやって来た。

すでにバルセロニスタの間でアイドルになっているシュステルに加え、早くも世界ナンバーワン選手としての名声に近づいていたマラドーナ。彼の加入は、バルサの新たな歴史を作るものとしてなければならなかった。