48 バルサに革命を

1986年7月25日、新しく迎えるシーズンの予算案に関する定例理事会がガスパー副会長の経営するホテル・プリンセッサでおこなわれた。この理事会で会長のヌニェスは次のように語っている。
「ヨーロッパチャンピオンにはなれなかったものの、我々の活躍はチーム成績だけにとどまらず、クラブ経営の面でも非常に正しい方向に向かっていると言っていいだろう。『ザ・エコノミスト』や『ウオール・ストリート・ジャーナル』という世界的にも経済情報では格調高い二つの雑誌が我々を取り上げ、理想的なフットボールクラブ運営と認めている。これはひとえに10万ソシオのおかげだと思う」

確かに経済的には他のヨーロッパクラブを引き離しているバルサだった。ヌニェスが会長に就任してから、1年として赤字決算になったシーズンがなかった。だが問題はスポーツ部門である。それでなくとも「セビリアの悲劇」はとてつもない衝撃をソシオに与えていた。

明るい希望をソシオに抱かせるような魅力的なスター選手の獲得が必要だった。スカウト陣はバンバステンとグリットの獲得を提案する。だがベナブレスが考えていたのは他の選手だった。エバートンの選手であるゲーリー・リネッカー、そしてマンチェスターのマーク・ヒュークスの獲得をクラブに依頼する。リネッカーの移籍料はバンバステンとグリット二人のそれを足したものとほぼ同じであった。ベナブレスが彼らを要求するなら獲得するしかない。かくしてリネッカーとヒュークスが1986−87シーズンに入団にしてきた。ちなみにスビサレッタもこの年に入団している。

当時のスペインリーグの決まりでは、スペイン国籍以外の選手は二人までしか選手登録できない。したがって彼らの加入により、シュステルとアーチバルは未登録選手となってしまった。

決勝戦で選手交代と共にベンチにもよらず控え室から空港へ直行したシュステルに対し、今後いっさい彼を試合に出さないようにベナブレスに要請するヌニェス。いずれにしても選手登録されていないのだから試合にでることはできない。シュステルはベナブレスやヌニェスに対してメディアを通じて批判を繰り返す。アーチバルも黙ってはいない。選手たちは度重なるクラブ理事会の選手批判や、シュステル、アーチバル問題で試合に集中するどころではなかった。リーグはもちろん国王杯にもUEFAカップにもいいところなくシーズンを終えることになる。

シーズンの開始は、まさに不調に終わった前年の延長だった。地元カンプノウでいきなり2連敗したバルサ。反ベナブレス、反ヌニェスを叫ぶソシオの声は日増しに大きくなってくる。そしてまだ4試合しか消化していない段階で、ベナブレスは突然解雇された。彼の代わりにバルサの指揮をとるのはルイス・アラゴネス、コーチにはレシャックが就任した。

だが、一度崩れかかってしまったものを立て直すのは非常に難しい。反ヌニェス派は相変わらずヌニェス退陣を叫び、ソシオたちはモチベーションのかけらもない選手たちや貴賓席に居座るクラブ理事会に抗議の意味を込めて白いハンカチを振り続ける。このような状況に対し、まさに火にガソリンをかけるようにスキャンダルな事件が追い打ちをかけた。

現在では常識となっている契約方法ではあるが、当時としてはまだめずらしかった方法。選手に対しクラブは2種類の契約書類を用意し、それぞれにサインをさせていた。肖像権に関する契約書と普通の年俸に関する契約書だった。だがバルサは年俸に関する契約書のみ国税局に提出していた。そこを鋭く国税局がメスを入れてきた。もう一つの契約書、つまり肖像権の方の年収に関する「税金未納」問題の発覚だった。当然のことながら選手たちはクラブにこの税金の支払いを要求する。だがクラブ理事会は完全にそれを無視してしまった。

1988年4月28日、選手たちはついに反乱を決意する。それは前代未聞の反乱だった。なぜなら選手たちが会長の辞任を要求したのだ。エスペリアホテルで記者会見を開いた選手たちは、記者団を前にヌニェス会長の辞任を要求した。後に「エスペリアの反乱」と呼ばれることになる有名な記者会見であった。だがソシオの反応は選手たちにとっては厳しいものだった。即時にこの事態に対応したクラブ側が、この事態をクラブ側に利があるように宣伝していたからだ。

この記者会見から2日後、つまり4月30日、カンプノウでクラシコがおこなわれた。カンプノウには6万人しか駆けつけていない。しかも試合が始まるやいなやマドリの選手のプレーに対し拍手するソシオや、バルサの選手にブーイングをするソシオまで現れる異常な事態となった試合であった。

バルサ総体が音を立てて崩壊していった。クラブ理事会、監督、選手、そしてソシオ。すべての歯車がかみ合わず空回りするバルサ総体だった。

革命が必要なことは明らかだった。かつてこれほど分解した経験はなかったバルサだ。このシーズン、最後の最後に国王杯のカップを手にしたが、根本的な改革が必要なことは誰の目から見ても明らかだった。

5月4日、ヨハン・クライフの監督就任が発表される。2年後に会長の任期が切れるヌニェスにとって自らの会長再選をかけた大ばくちだった。結果的には、クライフ一人の登場でバルサ総体を包んだ危機状況を乗り越えようとしたヌニェスのファインプレーになった。

1978年、クライフのサヨナラ試合としておこなわれたバルサ対アヤックス戦にかけつけた多くのソシオたち。あの日カンプノウは満員になっていた。それは彼に対しての感謝の気持ちを伝えるためであり、最後の「ありがとう」という言葉を言うためであった。「ありがとう、ヨハン、いつかまた会いましょう!」

そのヨハンが今度は監督としてカンプノウに帰ってくるのだ。これまでにない新たな時代の到来の予感。これから何かが始まろうとしていた。