47 そして再び悲劇の決勝戦 

ヌニェスがクラブ会長に就任してから初めてのリーグ優勝である。彼の興奮ぶりはじゅうぶんに予想できる。それは優勝祝賀会での次のような発言を見ればさらに明らかとなる。
「このリーグ優勝を境として、我がバルサは新たな歴史を作っていかなければならない。これを出発点として、スペインはもとよりヨーロッパの中においてもさらに大きなクラブとして認識されていかなければならない。これまで我がバルサに欠けていたもの、それは一つの時代を制覇する連続性といっていいだろう。今こそ世界の頂点に立つクラブとなるチャンスがやって来た。」

だがそのヌニェスの願望が現実となるのは、まだ数年待たなければならない。このベナブレスの時代が終わりを告げ、かつてのスーパースターが監督として戻ってくるまで待たなければならない。なぜならベナブレスバルサはこの最初の年にリーグ優勝を果たしたのが頂点となり、その後は下降線をたどっていくだけだったからだ。

ヌニェス会長の楽観主義的な見方と現実の差は大きかった。リーグ優勝した翌年のシーズンからその後3年間にわたって、バルサは再び危機の時代をむかえることになる。それはチーム成績が良いとか悪いとかという問題を越えたところに存在した危機であった。なぜならクラブを構成する4つの要素、つまりクラブ理事会、監督、選手、そしてソシオの信頼感の崩壊現象が起きてしまったからだ。それはクラブ理事会による監督や選手に対する批判、監督と選手間の摩擦や度重なる非難発言、そしてそれらのニュースをマスコミを通じて知ることによりおきる、ソシオからのバルサ総体への批判。ヌニェス派のソシオは監督や選手を攻撃し、反ヌニェス派のソシオたちはクラブ理事会を痛烈に攻撃する。

それはすべて1985−86シーズンのコパ・デ・ヨーロッパ決勝戦での敗北がきっかけとなっている。11年ぶりにリーグ優勝したバルサにとって、翌年の最大の目標はコパ・デ・ヨーロッパの制覇であった。

リーグ優勝を果たした翌年のシーズン、バルサはほとんどといっていいほど選手の補強をしていない。それは余りにも前年の成績が良かったこともあるし、期待できる何人かのカンテラ選手もベナブレスによって計算されていたからだ。バルサの中心選手となるのは二人の外国人、ベルナルド・シュステルとスティーブ・アーチバルだった。だがシーズンが始まってみると、シュステルとベナブレスとの個人的な確執やアーチバルの度重なる負傷などがあり、昨年のバルサとはほど遠いものとなっていた。リーグ戦では早くも首位戦線から離脱してしまったバルサだが、それでもコパ・デ・ヨーロッパのトーナメントでは厳しい試合の連続ながらも、どうにか勝ち進んでいた。

バルサにとってまさに「厳しい試合」の連続だった。まずチェコのスパルタ・デ・プラガ相手に敵地で1−2と勝利し、次のステップへは簡単に進めるかと思われた。だがカンプノウでは0−1と敗れる試合となった。アウエーでの得点がものをいい、バルサはかろうじて次に進んでのオポルト戦となる。カンプノウでおこなわれた最初の試合でバルサは2−0と勝利する。だが2週間後におこなわれた敵地では3−1と敗北。ここでもかろうじてアウエーの得点が有利に働いた。そして準々決勝は強豪ユベントスが相手となる。この対戦も最初はカンプノウ。バルサはユベントスを1−0で敗る。そして敵地では1−1とどうにか引き分け、最大の障害を乗り越えたかと思えたバルサだった。

ヨーロッパ制覇に残った4つのクラブ、それはスエーデンのイエテボリ、ベルギーのアンデルレヒト、ルーマニアのステアウア、そしてバルサだった。ヨーロッパ中のメディアがこの時点でバルサ優位説を唱えたとしてもおかしくはない相手だった。そして準決勝ではイエテボリと対戦することになる。

多くの予想を裏切り、イエテボリはバルサ相手に3−0と勝利した。バルサにとって大打撃の敗北だ。3点差をひっくり返すのは奇跡が起きない限り容易なことではない。だが2週間後のカンプノウ、1986年4月16日にイエテボリを迎えたカンプノウにはその奇跡を信じる11万のバルセロニスタが結集していた。負傷していたアーチバルにかわり、ピッチ・アロンソがスタメンで出場する。そしてバルサは前半に1点をあげ、後半にはいり2点を追加していた。ゴールはすべてピッチ・アロンソが入れたものだった。そして延長戦が過ぎ、PK戦となる。120分の戦いのヒーローがピッチ・アロンソだとすると、このPK戦ではバジャドリ戦のヒーローであるウルッティが再び登場する。相手のPKを一つ止め、すべてのPKを成功させていたバルサが奇跡の勝利をおさめ、念願の決勝戦進出を決めた。

バルサにとって1961年の「ベルナの悲劇」以来の決勝戦だ。相手はステアウア・デ・ブカレスト。前評判は圧倒的にバルサ優位。しかも決勝を戦うスタディアムはほぼ地元といっていい、セビリアのサンチェス・ビスフアンだった。

1986年5月7日。サンチェス・ビスフアンには5万人のバルセロニスタが観客席を埋めていた。

ステアウワは強固なディフェンス体制をしき、カウンターアタックを狙う。バルサは引きに引いた相手ディフェンスを何とか破ろうとするが、決定的なチャンスがつくれない。スタメンで出場していたシュステルは後半に入り交代させられる。怒り狂った彼はそのまま控え室に直行し、試合が終わるのも待たず最終便のバルセロナ行きの飛行機に乗ってしまった。もう一人の外国人選手であるアーチバルは負傷中にも関わらず、ベナブレスにスタメンで出されていた。だがもちろん体調のいいときの半分の力しかだせない。そして準決勝で大活躍したピッチ・アロンソは延長戦の後半に入ってからそのアーチバルと交代するのである。

試合は無得点のまま、結局はPK戦へともちこまれる。
ウルッティはステアウアの最初の2本のPKを止める。だがそれでもバルサは優勝できなかった。まずアレサンコが、そしてペドラッサ、ピッチ・アロンソが、さらに4人めのマルコスがPKを外したのである。

多くの疑問を残したベナブレス采配であった。試合前に語られた「攻撃的なフットボール」はついに見られなかった。25年ぶりの決勝戦、そして再び「セビリアの悲劇」として語られることになる試合となった。

念願のヨーロッパチャンピオンになるには、この2年後監督に就任してくるヨハン・クライフを待ち、そしてさらに4年待たなければならない。