46 11年ぶりのリーグ優勝 

オープニングの試合に、しかもベルナベウでのマドリ戦に勝利したバルサはいきなりリーグの首位に立つ。そして驚くことに、一度たりともこの首位の座を明け渡すことなくシーズンを終了するのである。これはスペインリーグが発足して以来の快挙であった。

ヨハン・クライフがバルセロナの地を踏んだ最初の年である1974年以来、バルサはリーグ優勝から遠のいていた。もうあれから11年もたっていた。「今年こそは」という期待、それは毎年のシーズン開始当初にバルセロニスタの誰もが思うものであった。だがそのたびに裏切られてきたその想い。それでもバルセロニスタによる優勝への期待は、もちろんこのシーズンも例外ではなかった。例えマラドーナが抜けてからの初のシーズンであったとしても。

皮肉なことにそのマラドーナが抜けたことにより、シュステルの本来の力が生き生きとチーム内に躍動することになる。すべてのボールをマラドーナへというスタイルが、チームのオーケストラ指揮者としてのシュステルによって各選手にボールが散らばっていく。そして決してスペクタクルなプレーは見せないものの、ゴール獲得の高い効率性を誇るアーチバル。バルサカラーを肌に染めたカンテラ出身選手のロッホ、カルデラ、クロス、そしてカラスコたちによる90分間にわたっての疲れを見せない活躍。いわゆる「プレッシング」と「犠牲精神」、そして「規律」を求めたベナブレスによる新星バルサ。その強さは、何と16節に当たったビルバオとの対戦まで敗戦の味をかみしめなかったことを見ても明らかだ。このシーズンのバルサはまさに「勝つための機械」と化した敵なしのバルサであった。

11年ぶりのリーグ優勝まであと一歩のところにきていた。29節を終了したところでバルサは2位のAt.マドリに8ポイント差をつけ、次のバジャドリ戦に勝ちさえすれば4試合残して優勝が決定であった(当時のリーガは18チーム、勝ち点2ポイント)。

1985年3月24日、バジャドリ対バルサ戦。この試合を実況中継(テレビではない。ラジオである。)したのはホアキン・マリア・プジョー、現在もバルサのすべての試合をラジオ・カタルーニャで中継し、現役でありながらすでに「伝説の人物」となっているジャーナリストでもある。

「あと3分でバルサ優勝! あと3分でバルサ優勝! 後半42分、バルサ2−1でバジャドリをリード! バルサ11年ぶりの優勝まであと3分! バジャドリ、最後の力を振り絞って攻撃する! ボールはマヒコからアラシルへ、アラシルからヤネスへ! ヤネスがドリブルでゴールエリア内へ走る! 気をつけろバルサ! 気をつけろバルサ! アルベルト(バルサ)がヤネスに向かう! ボールをカット! ボールをアルベルトがカッッッッッット! ................審判がペナルティーの笛を吹いた! No!!!!!!!! No!!!!!!!!!!! No!!!!!!!!!!!!!!!!!!それはペナルティーじゃない! ペナルティーじゃない! 信じられない! この審判は信じられない! 明らかにペナルティーじゃない! No!!!!!!!! No!!!!!!!!!!! No!!!!!!!!!!!!!!!!!! 神に誓ってペナルティーじゃない!」

「マヒコがボールを置く! ウルッティ! 止めろ! 止めるんだ! ウルッッッティ!!!! .............................. 止めた! 止めた! 止めたああああ! ウルッティ! ウルッティ! ウルッティ愛してる! ウルッティ愛してる! ウルッティ愛してる!」 

この「Urruti t'estimo!  Urruti t'estimo! Urruti t'estimo!」という絶叫がラジオに釘付けになっている200万カタラン人の耳に届いた数分後、バルサのリーグ優勝が決定する。

この優勝はこれまでにないほどの大きな喜びをバルセロニスタにもたらした。国王杯優勝ではなく、ついに念願のリーグ優勝を手にしたのだ。バジャドリから帰ってくるバルサの選手を迎えるために何十万という人々が空港に向かった。そしてクラブ会長のヌニェスは会長就任後、初めてのリーグ優勝を味わうことになる。

この11年間、バルサがリーグ優勝を飾れなかった理由はいろいろあるだろう。バルセロナの生活の慣れてきたと思うと、新たな外国人選手の獲得で放出された多くの外国人選手。監督と選手による数々の衝突。多くのスキャンダルな審判の疑惑の判定。キニーの誘拐事件。シュステルやマラドーナの悪いタイミングでの負傷。毎年シーズンの始めには常に「優勝候補」として取り上げられてきたものの、その度に何か問題が起きてしまうバルサであった。

ベナブレスが成功した一つの原因として、クラブ内はおろか外部との人間関係でもいっさいの問題を、もちろんスキャンダルも起こさなかったことだろう。常に主役となることを避け、クラブや選手に、今までバルサというクラブに欠けていた落ち着きを取り戻した。例えばマラドーナがバルサに在籍した時代を思い出してみよう。マラドーナがグランド外で起こすスキャンダルが、毎日のようにメディアに登場していた。メディアに流れるバルサ関連のニュースは、スポーツ的なものではなくそれ以外のものとなっていた。メディアを通しての話しとはいえ、これらのことが選手間に良い影響を与えるわけがなかった。

この84−85シーズンには優勝したこと以外にも、バルサの歴史において重要な意味を持つことが起きている。それは当時としては珍しいクラブの「記念博物館」の完成であった。

1984年9月24日、バルサ関係者の長い間の夢であった「バルサ記念博物館」が開設される。カンプノウの貴賓席の裏にあるスペースを利用したこの博物館の中には、これまでのバルサのすべての歴史が詰められている。それまで獲得した優勝カップを始め、歴史的選手の記念品や時代ごとのユニフォームやシューズなどが展示されていた。カタルーニャ州議長のジョルディ・プジョーも参加しておこなわれたセレモニーは、ヨーロッパにおけるビッグクラブ関係者の注目の的となったのは言うまでもない。

そしてこのシーズンが終わった1985年6月30日には、バルサソシオの数がついに10万8千人となる。