49 クライフ監督就任の背景

バルサで5シーズンの選手生活を経験し1978年に退団したクライフは、その後アメリカへの冒険にでていく。ロサンヘレス・アステカス、ワシントン・ディプロマティックスなどで選手生活を過ごし、1981年に突然スペインの2部リーグに所属するレバンテでシーズン後半だけプレーする。そしてその後2年間アヤックス、1年間だけフェイノールドでプレーし現役生活を終えている。

この80年代の始まりの頃、クライフは彼のビジネス仲間であるマイケル・バシレビッチといろいろなビジネスを手がけていた。だがそれは見事にすべて失敗し、破産同然状態だったという。どのような状態でビジネスが失敗し、どのくらいの借財を抱えていたかはいまだに明らかにはなっていない。クライフはその当時のビジネスに関しての話題にはいっさい触れないのである。だがいずれにしても、このビジネス失敗の経験とアメリカというビジネス社会で生活したことにより、選手時代以上に逞しい「ネゴシエーター」になっていた。選手時代でさえ金銭感覚に富んでいたクライフだ。クラブから受け取る年俸以外にも、この当時にはそれほど概念としてなかった「肖像権」や「個人スポンサー」のビジネスを選手時代から開発していた。

現役を離れアヤックスの監督として就任したクライフは、それまで経験してきたビジネス概念のすべてを投入する。選手の食事内容から食事提供業者まで、選手の契約期間から年俸まで、そして放出選手の移籍料まですべて彼の一存で決定されていった。確かにチーム成績は残したものの、アヤックス理事会はクライフの独裁的な指揮振りに嫌気が指していたとしても不思議ではない。自分のビジネスに失敗した男に、なにゆえクラブのすべての実権を握ることなど許しておけるだろうか。そのたまりにたまった不信感に火をつけたのがバンバステンの移籍だった。クラブ理事会の意見を無視した形でおこなわれたミランとのクライフ独自の交渉により、バンバステンはミランに移籍することになる。

クラブ理事会との摩擦だけではなく、オランダメディアも決してクライフとスムーズにいっていたわけではなかった。クライフの人生は常に「白か黒」であったが故に、彼を批判するメディアは悪であり、彼に好意的なものは善と理解された。当然ながら彼は「善」のメディアとのみつき合うことになる。そしてそのメディアを使って、クラブにそしてファンに影響を与えていく。その代表的なオランダメディアが「De Telegraaf 」であった。クライフの信頼するジャーナリストが多いこの新聞社が誰よりも早く、もちろんクラブ理事会のメンバーが知るよりも早く、クライフの方針を独占で公表していく。バルサがオファーを出したことも、またクライフがバルサに行くことを決意したこともこのメディアの独占記事となっている。

クライフがバルサの新監督に就任することが発表されたのは1988年5月のことだ。だがその1年前の夏にすでにヌニェスは彼の自宅に電話をかけている。「セビリアの悲劇」が起きてからしばらくしてからのことだった。ヌニェスは監督就任の誘いをかける。だがクライフは明確な返答をしない。彼は親友であるレシャックの意見を聞こうと思っていたのだ。

「チャーリー、どう思う?」
クライフはレシャックに電話をかける。
「もし俺があんただったら、バルサには行かないね。いいかい、今バルサにいる選手はひどいもんだ。ボールさえうまく処理できないテクニック的にはお粗末な選手ばかりが揃っている。誰が監督をしても20ポイント差でマドリに優勝されちゃうよ。まあ、今は来ない方がいいな」

だが翌年の春に再びヌニェスから連絡があったときは誰にも相談せず監督就任を決めている。事情は1年前とだいぶ変わってきていたからだ。アヤックスではもうすでに監督を辞めることになっていたし、これといったオファーも来ていないクライフだった。

一方ヌニェスにとってクライフ獲得はどうしても必要なことだった。反ヌニェス派にも連絡網を張っている彼は、彼に反対している人たちが2年後の会長選挙に向けてクライフ獲得を狙っていることを知っていた。クライフはバルサの選手として5年もプレーしながらもタイトルは二つしか獲得していない。だがそれでもバルサソシオにおいてはいまだに英雄であった。クライフを反対勢力が獲得する前に彼をとらなければならない。それは同時にクラブ最大といってもいい今の危機状況を乗り越えることすら可能にしてくれるかも知れない。ソシオには多大な希望を抱かせることになるだろうから。だがヌニェスはそれが危険な賭けであることもわかっていた。なぜならクライフとアヤックス理事会との問題はもちろん聞き及んでいたし、彼には当然ながら多大な権力をあたえなければならないこともわかっていたからだ。だがヌニェスにとって今さら他に選ぶ道はない。

クライフのしなければならない仕事は山のようにあった。「エスペリアの反乱」によりクラブ会長の辞任を求めた選手たち。選手とクラブ理事会の衝突を目の前にして分裂するソシオ。そして退屈な上に結果もでない試合が続くことによりカンプノウに足を運ばなくなったソシオたち。このようなバルサを立て直さなくてはならない。

クライフに利点があったとすれば、それはかつてバルサの選手であったことだろう。彼はクラブの何たるかをすでに理解していたし、カタルーニャにとってバルサがどんな意味を持つかも誰よりも認識していたからだ。「バルサの敵」は誰か、それは選手時代にすでにわかっていた。いつの時代でも「バルサの敵」はバルサ自身ということを知っていたクライフ。そして今、最初にしなければならないこと、それは単純にして明快なことだった。まず大掃除から始めなければならない。クラブの大掃除、それはまずチーム内の大掃除から始められた。

前年にバルサに在籍した選手で残ったのはわずか9人だけだった。残りの10人以上の選手はすべて放出された。そして新たに補強選手として獲得したのは12人。まさに大量補強である。