50 スタートに向けて(88−89)

わずかに残った9人の選手、それはアレサンコ、カラスコ、フーリオ・アルベルト、ミゲーリ、ロベルト、サルバ、ウルバーノ、スビサレッタ、そしてリネッカー。獲得した12人は次のような選手たちだった。

バケーロ(レアル・ソシエダー)
ロペス・レカルテ(レアル・ソシエダー)
チキ・ベルギンスタイン(レアル・ソシエダー)
フーリオ・サリーナス(At.マドリ)
エウセビオ(At.マドリ)
ミケル・ソレール(エスパニョール)
バルベルデ(エスパニョール)
ゴイコエチェア(オサスーナ)
ウンズエ(オサスーナ)
マノロ・イエロ(バジャドリ)
セルナ(セビリア)
アロイシオ(ポルト・アレグレ)

この中でレアル・マドリのイエロの兄であるマノロ・イエロはベティスに、ゴイコエチェアはレアル・ソシエダーにそれぞれレンタルされ、カンテラからミージャ、アモール、セルジ(ジェラールの兄)、セレール、ロウラと5人の若者が加わり、合計24人の選手でスタートする。

(上左から)レカルテ、サリーナス、クライフ、ソレール、イエロ、セルナ
(下左から)バケーロ、バルベルデ、ウンズエ、エウセビオ、チキ

クライフが監督に就任するまでは当たり前のようになっていたことが一つあった。それはクラブ理事会の人間が選手控え室に入ってくることだった。試合前に着替えている選手たちを訪ねて励ましたり、試合に負けた時などは慰めにくる「背広組」の人間もいた。それは長い間の習慣となっており、背広組にしても選手たちにしても当たり前のことのようになっていた。だがクライフはそれが気に入らない。現場とオフィスを分けるのが彼のアイデアだった。

クライフは次のように語っている。
「私が監督に就任して来てすぐ気が付いたことは、選手とクラブ首脳陣の関係がいまだに悪い状況だということだ。選手たちはまだ過去のことにこだわっているようだった。だから私は彼らを前にしてはっきりと言ったんだ。『お前たちのボスは私であって背広組ではない。だから何か文句があるならまず私に言いなさい。私があなた方のボスであることを忘れてはいけない』。もちろんクラブ理事会の人間にも言わなければならないことがあった。それは現場には絶対に口をださないこと。もし選手に用があるならまず私に連絡をしなければならない。そしてもし私と会合を持ちたければ、選手控え室に来るのではなく、連絡さえくれれば私がオフィスに出向くとね。したがってクラブ理事会の人間は絶対に控え室に入らないように約束事を作った。なぜ私が選手控え室にこれほどこだわるか彼らは理解できなかったようだ。それは彼らはかつてフットボール選手ではなかったから当然のことかも知れない。だが選手にしてみれば、選手控え室というのは彼らの聖域でなければならないんだ。好き勝手なことを言える唯一の場なんだからね。」

クライフには彼の背後を守る二人の協力者がいた。一人はアヤックス時代にも彼の協力者であったトニー・ブルインス。スカウトマンとしてはフットボール界において超一流の人物だった。彼が新たな選手の情報を仕入れてきて逐一クライフに報告することになる。そしてもう一人はかつての同僚であったカルラス・レシャック。ソシオやクラブ理事会にも受けのいい彼がクライフの目となり耳となり、クラブを取り巻く雰囲気の情報を取り込むことになる。

1988年7月22日、クライフバルサのプレゼンテーションがカンプノウでおこなわれた。カンプノウには約2万人のバルセロニスタが集まっている。まず会長のヌニェスが挨拶をし、新監督や新加入選手、そしてキャプテンのアレサンコが紹介される。ヌニェスの発言の最中には観客席の一部から大きな拍手が起きていた。だがアレサンコが発言している最中に、ひときわ大きなブーイングが起きる。まだ「エスペリアの反乱」の中心人物だったアレサンコを「ペセテロ」として非難するソシオがいたのだ。そしてクライフがマイクを握る。

「これから希望に燃えた新しいシーズンを迎えるに当たって、バルサ再建のために尽力をつくしてきた会長に大きな拍手があったことを嬉しく思います。しかし残念ながら、私が選んだキャプテンにブーイングをするということは非常に不愉快です。アレサンコをキャプテンに任命したのは私ヨハン・クライフです。彼にブーイングすると言うことは私にブーイングしていることと同じです。今、我々バルセロニスタがしなければならないこと、それは団結以外の何ものでもないということを忘れてはならないでしょう。もう過去のことを忘れて現在と将来を見つめていかなければならない。そのためには誰に対してであろうと、ブーイングは許されない。それは我々バルセロニスタが自分ののクビをしめるようなものだ。」

強烈な挨拶であった。そして正論でもあった。これまでソシオに対してストレートにものを言ってきた監督はエレニオ・エレーラ以外いない。だがクライフは自分自身に、そして自分のアイデアに誰よりも自信をもっている監督であった。必要とあるならば、すべてを敵にまわしても信じていることを貫こうという姿勢がすでにこのプレゼンテーションで示されることになる。

このプレゼンテーションの2日後にはプレステージのためにオランダに向かう予定になっていた。だが不思議なことに、カラスコとフーリオ・アルベルトの二人が召集されていなかった。

これまで各選手の契約書の中には「試合ごとの報奨金」が約束されている。それは試合に出場しようがしまいが、すべての召集選手に与えられるものとなっていた。クラブと選手間の契約書にまで目を通していたクライフは、この報奨金を試合に参加した選手だけに与えるべきだと主張していた。そしてその旨をすべての選手に告げ、試合に出場しない選手はその報奨金の権利を放棄するように提案する。それは提案という形をとってはいたが、ほぼ命令に近かった。ほとんどの選手がそれに同意するものの、二人の選手だけが異議を唱えていた。それがカラスコとフーリオ・アルベルトの二人だった。クライフは彼らを合宿から外し、カンプノウでの二人だけの練習を命ずる。クライフと選手間における最初の衝突だった。

しばらくしてからこの二人は、結局クライフの「提案」を受け入れることになる。それを聞いたクライフは即座に次のように語り、二人を合宿に呼び戻している。
「私はフットボール選手だったから彼らの気持ちはわかる。しかもこのクラブの選手でもあったのだからクラブのことも誰よりもよくわかっている。もしこのクラブを改善していこうと思うのなら、歴史を正しく総括しなければならない。そして今の私の使命は、まさにこのクラブの悪しき慣習を変えることにある。」