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1988年7月24日、バルサの面々はプレステージをおこなうオランダのパペンダールに到着した。この日から8月8日まで続くことになる合宿だ。クライフのアイデアは練習試合を通して新しいシステムを体で覚えてもらうことだった。ほとんどが今シーズンに加入してきた選手であること、監督も代わりシステムも今までのものと違うこと。シーズンが始まるまでの約1か月強の間に基本的なシステムを浸透させておかなければならなかった。時間はあまりない。
翌日から練習試合が組まれていた。それも休みなしの14日間続けての試合が組まれていた。午前中は基本的なシステムの練習、そして午後が試合に当てられた。驚くべきスケジュールでプレステージがおこなわれる。 7月25日 FC BARCELONA-VARSSEVELD 6-1 最後の練習試合を終了し、翌日にはバルセロナへ向かう。そしてシーズン最初の試合までにさらに9試合の練習試合が組まれていた。プレステージで何と合計23回の試合をおこなうという、これまでの常識では考えられないスケジュールだった。 9月3日、カンプノウでのエスパニョール戦を皮切りに88−89シーズンがスタートする。バルサはこの試合を2−0と勝利し、次のエルチェ相手の試合にも勝利する。結局6試合を消化したところで4勝2分けでリーグのトップに立っていた。そして7節目はベルナベウでのクラシコとなる。相手のマドリはこのシーズンまで3年連続リーグ優勝しており、ブートラゲーニョやミッチェル、ウーゴ・サンチェスなどの選手の最盛期を迎えている頃だった。このシーズンも快調に飛ばし、バルサにピッタリとくっついている。このクラシコはマドリが地元の優位さをいかし、3−2とバルサを敗っている。 19試合を消化しシーズン前半を折り返したところで、マドリがバルサに2ポイントの差をつけて首位につけていた。シーズン後半にリーグ優勝の可能性を期待されるバルサだが、やはりマドリの方がまだ一枚も二枚も上回っていた。バルサは結局マドリに5ポイント差というところで2位に終わっている。 このシーズンの最終的な期待は、すべてレコパ(カップ・ウイナーズ・カップ)優勝にかけられた。すでに準決勝に進んでいたバルサは1989年4月4日、カンプノウにCSKAソフィアを迎えていた。この試合は4−2でバルサが勝利し、敵地でも1−2と勝利し決勝戦へ進む。このホームアンドアウエーの2試合でバルサコーチ陣は一人の選手に惚れこむことになる。カンプノウで2点をあげたウリスト・ストイチコフという長髪の若者だった。荒々しくも闘争心にあふれ、スピードや得点能力は素晴らしいものを持っていた。その後、クライフの協力者であるトニー・ブルインスが彼の情報集めに走ることになる。
5月10日、決勝戦の相手はイタリアの強豪サンプドリア。会場はスイスのベルナ。そう、1961年にコパ・デ・ヨーロッパ決勝戦を戦い「ベルナの悲劇」を生んだ会場だった。あれからもう27年が経過していた。この決勝戦に期待をよせる2万5千人のバルセロニスタが会場に駆けつけていた。決勝戦を戦うバルサの布陣は左のようなスタメンだった。システムはシーズンを通しておこなってきた3−4−3形式。バルサは試合開始3分でサリーナスの得点でリードし、試合終了間際に途中出場してきたロペス・レカルテのゴールで優勝を確定した。バルサはレコパの大会に3回優勝した初のヨーロッパクラブとなると同時に、クライフバルサにとって初のタイトル獲得となった。 翌日のカタルーニャのスポーツ紙エスポーツが「クライフ革命」とタイトルを付けて次のようにコメントしている。 リーグ優勝は逃したものの、時々スペクタクルな試合が見れるようになったバルサ。38試合で80ゴールを決めていることからもわかるように、バルセロニスタ好みの攻撃的なフットボールが展開されようとしていた。しかもレコパのタイトル獲得により、少なからず来シーズンに期待を持たせるものとなった。マドリは絶頂期を迎えており、このシーズンも優勝したことで4連続リーグ制覇を遂げていた。バルセロニスタの夢はスペインリーグの主導権を宿敵マドリから奪うこと。その期待が現実になりそうな予感をさせるクライフの1年目だった。 |
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