52 リネッカーの喜びと苦悩(88−89)

ゲ−リー・リネッカー、ワールドカップメキシコ大会での得点王となったイギリス人クラック。イギリス代表監督のボビー・ロブソンは彼について次のように語っている。
「リネッカーはテクニック的には並みの選手と言っていいだろう。だが彼は9番の選手として必要なものを誰よりも持っている。それは、ボールが行きそうな場所に誰よりも早く到着する能力、どこにボールが流れてくるかの読みの鋭さ、そしてシュートを放つのに最適なポイントを選び出す才能、それらを備えている世界でも代表的な9番の選手だ。」

1986−87シーズンにエバートンから鳴り物入りでバルサにやって来たリネッカー。220万ポンドというクラブ史上最高額の移籍料ということに示されるように、当時の監督であるベナブレスにとっては非常に期待される選手だった。1年目、彼はその期待に見事に応える。41試合に出場し、21ゴールを決めチーム内の得点王となっていた。

最初のシーズンである1987年の1月13日、リネッカーにとって待ちに待った試合がやってきた。カンプノウにおけるダービー戦、レアル・マドリを迎えての試合だった。噂には色々と聞いていたが、マドリ戦を体験するのはもちろん初めてだ。ヨーロッパのどこのダービー戦とも比べることができないものと聞いていた。だがリネッカーはどうもそれは大げさな表現ではないかと思っていたという。
「カンプノウでのデビュー戦で僕は2点を入れている。確かサンタンデール相手の試合だったと思う。この試合、何がビックリしたかと言うと観客席にいる人たちが想像できないほどおとなしいんだ。ゴールを入れようが試合に勝とうがみなおとなしい。これまでエバートンのグランドや多くのイギリスのグランドでやってきた経験からすると、何か異常な感じだった。観客席をよく見てみると、親子づれや恋人同士という感じの人たちが多く、しかもみんな着飾っているんだ。まるでオペラやクラシックのコンサートに来ているような感じでね。本当に自分はラテンの国にきているのかどうか疑ったよ。」

だがこのダービー戦を経験することで、リネッカーはバルサの何たるかを、そしてカタルーニャにとってバルサが何を意味するかを体験することになる。リネッカーは話を続ける。
「グランドに通じる階段の脇に礼拝堂があるんだ。そこで選手たちが全員十字を切ってグランドに出ていく。その階段のところにいてもグランドから伝わってくる雰囲気はいつもの試合とはぜんぜん違う感じだった。そのとき思ったんだ、これはフットボールの試合じゃない、カタルーニャとスペインの戦争なんだと。そして今自分はカタルーニャ軍の兵士の一人に過ぎないとね。」

リネッカーにとって初のダービー戦、彼はハットトリックを決め3−2でマドリを敗っている。
「2点目を入れたとき、自分の髪の毛が文字通り逆立っているのがわかった。もう自分が自分ではなくなっているんだ。こんな感じを受けたのはフットボール選手生活で2回目のことだった。最初はワールドカップでのポーランド戦で決勝点を決めたときだった。でもカンプノウでのゴールはワールドカップのものとは比べものにならないぐらい興奮するもんだったよ。もしカンプノウが屋根に覆われているグランドだったら、観客性からの怒濤のような騒音で屋根が落ちてきていたと思う。それほどの騒ぎだった。リネッカー、リネッカーと観客席から連呼するバルセロニスタの声は一生忘れられないだろう。」

リネッカーと一緒に入団したマーク・ヒュークスが、バルセロナの街やそこに住む人々にとけ込めず、言葉の問題があったとはいえバルサというクラブや選手にも馴染めないまま消えていったのに比べ、リネッカーはまさに正反対をいっていた。彼の開かれた性格ゆえ可能になったのか、スペイン語の習得も早かったし、何よりも街や人々、そして選手たちととけ込むのにさして時間がかからなかった。
「バルセロナは本当に素晴らしい街だと思う。海があり山がありモダンな町並みがあり気候はいいし食事は最高。要するにすべてがあるんだあの街には。しかも生活リズムが自分にあっていたんだ。午前中練習をするだろ、それから女房と海のレストランで食事をする。もちろん魚介類のね。そして5時ぐらいから8時ぐらいまでシエスタさ。週の半分以上は夕食も街のレストランに行っていた。夕食は9時過ぎからだからね、あの街は。女房も気に入っていたし、できればバルサでプロ選手生活を終わらせるつもりだった。少なくともクライフが来るまではね。」

クライフの1年目、リネッカーは最初の3か月間肝炎にかかっていて試合に出ていない。だが体調を取り戻し練習に戻ってみたら彼のポジションは驚くことに右ウイングとなっていた。そう、レコパの決勝戦で見られたように、シーズンを通して彼のポジションは右ウイングとなっていた。
「チームに戻って来て、自分の立場がどのようなものなのかわかるのにそれほど時間はかからなかった。クライフは彼の獲得した選手を第一番に考えていたんだ。自分がもうバルサには必要のない選手だとすぐに気が付いた。そうじゃなければゲーリー・リネッカーをウイングに使おうなんて監督はいないだろう。例えその名がクライフであったとしてもね。彼としては僕を計算外の選手として考えていたんだろうが、ファンは僕のプレーを期待していてくれた。だからリネッカーを試合に出さないわけにはいかないだろ。そして僕としては活躍のしようがないウイングとなったわけさ。そのうちファンもどうしようもないウイング・リネッカーには失望するだろうという計算だったのかも知れない。」

クライフはリネッカーのウイング配置ということに関して多くを語らない。だがもちろん彼にしてみれば彼なりの理由があった。
「我々のシステムは非常に攻撃的なものだった。多くの選手が相手ゴールに集まっていく感じになるんだが、そうなるとスペースがなくなってリネッカーの持ち味がでなくなると考えたんだ。そこでスピードもある彼の特徴を生かして、スペースが多くあるウイングに置いてそこからの攻撃を期待したんだ。」

いずれにしてもリネッカーは、この1年だけでクライフバルサから去っていくことになる。だがバルセロナの街に対する思いやバルサに対する愛情は今も少しも変わっていない。毎年のようにバルセロナやクラブを訪れるリネッカーだ。バルセロニスタもわずか3年しかいなかったにもかかわらず、リネッカーには特別な親しみを持っている。