53 危うしクライフ!(89−90)

クライフの2年目になるこのシーズン、バルセロニスタの誰もが期待するもの、それは何と言ってもリーグ制覇だった。レアル・マドリがカンテラ育ちのブートラゲーニョやミッチェル、サンチスやマルティン・バスケスに加えてメキシコ選手のウーゴ・サンチェスの活躍により、これまでリーグ4連続優勝を飾るという黄金期をを迎えていた。今年こそは彼らを敗りバルサが優勝を、これがクライフに期待するバルセロニスタの思いだった。

だがそんな思いを抱いているバルセロニスタは、シーズンスタート早々に辛い現実を見せられることになる。開幕戦はバジャドリのホームでの試合だった。この試合、クライフはそれまで一度足りとも一部チームの合同練習に参加させたこともない選手をスタメンで起用する。ルセンドというバルサBの選手だった。試合途中で交代することになるこのルセンドだが、何年か後にバルサを離れるまで再び一部に戻ってくることはなかった。もちろん一部チームの練習にも参加することなしに選手寿命を終えている。この試合を2−0で敗れたバルサはその後も2試合続けてアウエーでの試合に敗北する。

1年目のクライフに対し、バルセロニスタはかなり大目に見ていたところがある。確かにほんのチョットでもスペクタクルを見られるようになったし、それを期待してカンプノウにもソシオが戻ってくるようになってきていた。選手起用やプレスを通して伝わってくる彼のコメントに納得できない部分は多くあったものの、それも「1年目のクライフ」ということで許されるところがあった。だが2年目の彼に要求されるものは非常に大きかった。

このアウエー3連敗を記録した後、クライフは壮絶な選手批判を始める。彼の選手に対する批判は常にプレスを通しておこなわれた。選手を呼びだして個人批判をするわけではなかった。したがって批判された選手はプレスを通してそれを知ることになる。

クライフにとってプレスは「味方のプレス」か「敵のプレス」しか存在しない。それはアヤックス時代でも同じだ。彼はバルサに来てからも「味方のプレス」に情報を流し、それを通して選手やクラブ首脳陣への批判を展開する。これまで少しずつたまってきていたバルセロニスタに不満が表面化してくるのも時間の問題だった。開幕試合でわけのわからない選手を起用したり、連日スポーツ新聞にのる選手批判がその不満に火をつけようとしていた。

2月に入り、バルサは首位のマドリにすでに7ポイントも差をつけられていた。そしてこの月の中旬にクラブ理事会が、ソシオ年会費の値上げ提案をソシオ審議にかけるためにソシオを集めての「クラブ審議委員会」を開いた。結局この提案は可決することになるのだが、問題はソシオ側から出された「クライフ辞任」提案だった。このシーズンもリーグ制覇の夢からは遠のいており、レコパもすでに敗退していた。多くのソシオにとって、クライフの復帰はマドリの黄金期を止めるものとして期待されていただけに、2年連続のリーグ敗退は大きなショックとなっていたとしても不思議ではない。だがクライフに賭けることで自らの会長の座も賭けているヌニェスにとって、この段階でのクライフ辞任は許されないことであった。それは自らの会長の座を野党に明け渡すことになるのだから。

1990年4月5日 
国王杯決勝戦
バルサーマドリ

1990年4月5日、バレンシアの本拠地であるルイス・カサノバで国王杯の決勝戦がおこなわれようとしている。バルサとマドリによって争われる決勝戦だった。マドリはほぼリーグを手中に収めているのに対し、バルサにとって、そしてクライフ個人にとっても非常に重要な試合であった。もしこの決勝戦に敗れるようなことがあれば無冠に終わるシーズンとなる上、宿敵マドリに二つのタイトルを持って行かれるということを意味していた。

クライフバルサにスキャンダラスが尽きることは希だ。この試合前まではほぼスタメンで出場していたカンテラ上がりのミージャが、この試合に呼ばれなかった。このシーズンが終わると共に契約が切れるミージャの契約延長交渉はシーズン開始当初からおこなわれていた。選手一人一人の契約交渉にも顔をだすクライフが提示していた年俸とミージャ側のそれがかなり離れていたことにより交渉が長引いていたのだ。そして4月始めを交渉の最終期限としていたクライフが、ミージャ側が妥協してこないのを見て彼をチームから除外してしまう。マドリとの秘密交渉も噂となっていたミージャだが、結局この決勝戦から除外されシーズンが終わるまで再びグラウンドに立つことはなかった。翌シーズン、この噂が現実となりミージャは白いユニフォームを着ることになる。

そんなこととは別に、バルサにとっては重要な試合だ。そして試合そのものも激しいものとなった。審判の見ていないところでウーゴ・サンチェスがアロイシオを負傷させ前半早くも交代していた。だが幸運なことに、イエロのひじ鉄とキックは見逃さなかった審判、前半終了間際に彼は退場させられていた。後半11人と10人の有利な戦いとなったバルサは、アモールとサリーナスのゴールにより2−0でトシャック率いるマドリを敗る。

この試合が終了したときに、記者のインタビューにマドリのキャプテンであるチェンドがこう発言している。
「この栄誉ある国王杯がスペイン以外のチームに持っていかれるということが非常に悔しい」
時代はもう1990年に入っている。だがカタルーニャとマドリの関係は変わらない。

これまでのバルサの歴史によく現れてきたように、このシーズンも国王杯を獲得することによってどうにか救われたものとなった。だが優勝記念パレードがおこなわれたサン・ハイメ広場に集まったバルセロニスタの喜びは100%とは言えない。マドリの5年連続リーガ制覇を許したクライフバルサに対する批判は大きかった。一部のバルセロニスタだけであったとはいえ、この祝賀会に集まった人々の中からクライフ辞任の声が広場に流れる。

ヌニェスが自らの会長の延命をクライフに託したことにより、断固としてクライフ辞任を拒否し続けたわけだが、もしこの国王杯に負けていたらどうなったのか、それは今となっては誰にもわからない。そしてこのサン・ハイメ広場に集まったバルセロニスタの誰一人として予測できなかったであろうこと、それはマドリの黄金期がマドリッドーバルセロナ間を結ぶシャトル便に乗って、次のシーズンからバルセロナに訪れるということだった。