54 ラウドゥルップとクーマンの加入(89−90) 

クライフ2年目に当たる1989−90シーズンが始まる前、リネッカーがファンに惜しまれながら去っていく。そして彼の穴を埋めるためにクライフが獲得した選手、それはユベントスでプレーしていたマイケル・ラウドゥルップだった。

わずか18才という若さでデンマーク代表でデビューしたラウドゥルップは、翌年ユベントスと契約しイタリアに渡った。だが外国人選手枠がすでに埋まっていたため2年間にわたってラッチオにレンタルされた。その後3年間ユベントスに在籍するものの、目立った活躍はしていない。だがヨハン・クライフはリネッカーの代わりとして彼に目をつけた。移籍料は当時としても格安な2億2千万ペセタだった。

ラウドゥルップの加入というニュースは、多くのバルセロニスタにとってそれほど期待に燃えるものとはいえなかった。ユベントスの控えの選手であり、リネッカーの代わりに来るにしてはゴール数の少ない選手だったからだ。クライフの一存で決められたラウドゥルップの加入を知ったとき、クラブのある副会長の「カルッチオでものにならなかった選手を、なぜ我々がとらなければならないんだ」という声が、クラブ首脳陣やファンの思いを代表していた。

しかしながらクライフのラウドゥルップ獲得の狙いは、誰もが想像できないような将来を見つめたものだった。ラウドゥルップに期待したもの、それは現在のチーム内に欠けているもの、攻撃を組み立てるための「閃き」を持った選手だった。彼にゴールを期待はするものの、決してリネッカーというゴール屋の代わりにとったわけではなかった。1986年のワールドカップメキシコ大会で彼を初めて見たときの強烈なインパクトをクライフは忘れていない。絶妙なドリブルにより相手ディフェンスをかわし、チーム総体を動かして攻撃体制を作り出していくあの活躍が忘れられなかった。

超守備的な試合運びが多いカルッチオではラウドゥルップの出番が余りなかった。だがにバルサに来た彼は、1年目から水を得た魚のように素晴らしいプレーを見せる。
「フットボールは楽しんでやるものだということがわかったような気がする。今までこんなに楽しくプレーしたことはなかった。カルッチオのやり方が良い悪いではなくて、スペインリーグが自分の性に合っているということだろう。ここでは攻撃的なフットボールが愛されているし、何よりも自由にプレーできることが嬉しい。」

そう、クライフは「9番」のユニフォームをつけたラウドゥルップに完全な自由を与えていた。彼は「9番」であって「9番」ではなかった。攻撃に関してのデザイナーとしての役目を彼は請け負っていた。攻撃のパターンを作るために、クライフは彼に自由を与えるのが一番良い方法だと考えた。

そしてもう一人の重要な選手の加入を忘れてはならない。オランダのPSVからロナルド・クーマンが10億ペセタという驚くべき移籍料で加入してきている。

だが彼の加入も決してバルセロニスタに簡単に受け入れられたわけではなかった。ディフェンスの選手に対しこれまでにない高額な移籍料を払うこと自体信じられなければ、誰よりも高い1億2千万という年俸が理解できなかった。そしてプレシーズンやプレゼンテーションのガンペル杯に現れたクーマンは、体重オーバーで誰の目からも「遅い」選手として写った。だがクーマンの右足による強烈なキックで、そして彼のリーダーとしての才覚で、バルセロニスタにその金額が決して間違いでなかったことを気付かせるのにそれほど時間はかからなかった。

クーマンはまさにあらゆる意味で「ヨーロッパチャンピオン」としてバルサにやって来た選手だった。1983年、アヤックスに入団し3年間プレーした後PSVに移籍した彼は、87−88シーズンでコパ・デ・ヨーロッパ決勝戦を戦い優勝している。そして1988年のユーロ・コパではオランダ代表選手としてバンバステンやルー・グリットなどと出場し、オランダを優勝に導いていた。そのクーマンに対し、レアル・マドリとバルサからオファーが来ていた。だが彼は迷わずバルサを選んでいる。それはかつて(選手と監督としていろいろ衝突はあったものの)アヤックス時代に監督を務めていたクライフがいることと、プレースタイルがバルサの方が合うということだった。

クライフは彼の加入に関して次のように語っている。
「クーマンのもっとも優れているところは、その個性の強さにある。そしてグランド内での彼の存在自体が、チームに冷静さを植えつけてくれる。アヤックスやPSV、そしてオランダ代表チームでもそうであったように、彼の周りにいる選手に冷静さと安定さを与える特性を持っているんだ。彼のシュート力や、ボールタッチの素晴らしさに関してはいまさら語る必要もないだろう。そしてチャンスを見ての前線へのロングパスが、我々の攻撃パターンを広くしてくれることを期待する。」

彼らにとって最初のシーズン、ほぼクライフの期待通りの活躍を見せていたといって良いだろう。だがそれでもリーグ優勝には手が届かなかった。

クライフが監督に就任してこれで2シーズンが経過した。彼にとって非常に難しい時期ではあった。最初のシーズンにレコパを勝ち取り、このシーズンに国王杯に勝利したとはいえ彼の監督としての座を安定させるものとは決してならなかった。それどころか彼の退陣を望む声さえ出てきている状態だった。それはひとえにレアル・マドリの5年連続リーグ制覇という事実が、多くのバルセロニスタにとって不愉快きわまりないものとなっていたからだ。もちろんクライフに期待する部分が大きかっただけに、その失望感も大きいものとなっていた。

そしてクライフにとってもヌニェスにとっても、監督や会長の座を賭けたもっとも大事なシーズンとなる90−91シーズンを迎えようとしていた。