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地元カタルーニャメディアは、クライフの3年目になるシーズンを予想するに当たって決して楽観的ではなかった。プレステージがおこなわれている最中にも多くの否定的なニュースがメディアに流れる。その代表的なものは「多くの選手がバルサから離れたがっている」というものだった。クライフがおこなうメディアを通しての選手批判や、個人の契約問題までに介入してくるそのやり方に不満がたまっているということだった。そしてそれは事実でもあった。
すでに昨シーズン末から試合に召集さえされなくなっていたルイス・ミージャは、契約切れのチャンスを利用して宿敵レアル・マドリに入団した。そしてロベルトもクライフのやり方を批判し、バレンシアに移籍をしている。またアロイシオは「自分のポジションでプレーできない」ことを理由にポルトガルのオポルトに移っていった。彼らへのクライフの対応は単純にして明快なものだった。 離れていく選手がいる一方、何人かの重要な選手がこの年に入団している。レアル・ソシエダにレンタルしていたゴイコエチェアが、そしてテネリフェにやはりレンタルされていたフェレールがそれぞれクライフによって呼び戻された。カンテラからはブスケ、アンゴイ、エレーラ、そしてジョセップ・グアルディオーラが徐々に一部チームの練習に呼ばれるようになった。だがこのシーズンのもっとも重要な加入選手はスペイン国内からのもではなく、東ヨーロッパ出身の選手だった。 ウリスト・ストイチコフ、24才にしてすでにブルガリアではスーパークラックとして名声を獲得していたCSKAソフィアの選手だ。前年のシーズンではレアル・マドリのウーゴ・サンチェスと共に一シーズン38ゴールを決め、ヨーロッパ最高得点王を讃える「ボタ・デ・オロ」を獲得していた。CSKAソフィアは当時のブルガリア政府(共産党)下におけるブルガリア軍隊に所属するクラブだ。彼の移籍交渉もブルガリア軍内のオフィスでおこなわれた。ブルガリア兵としてのストイチコフの月給は12万ペセタ、それがバルサに移籍することにより一挙に400万(年俸5千万)ペセタとなる。 クライフは語る。 だが「けんか腰」で「闘争心」の固まりのストイチコフには、厳しい洗礼が待ち受けていた。
この試合の審判を務めたのはバスク人審判であるウリサール・アスピタルテだった。彼は後半に入り再三抗議を続けていたクライフをすでに退場させていた。そしてストイチコフの抗議に対してもイエローカードを示していた。審判の目の前で猛然と抗議するストイチコフ。彼は突然、何を思ったか、堂々と審判の足を踏みつけたのだ。痛みに耐えられずかがみ込むアスピタルテ。どうにか立ち上がると、同僚選手に押さえ込まれているストイチコフに対しレッドカードを高々と上げていた。 スペインフットボール競技委員会は、ストイチコフに対し2か月の出場停止処分を科す。だがこの制裁を不服とする「規律委員会」や「審判競技委員会」は6か月の出場停止処分を主張し、再審査を要求。 この事態に対しバルサのとった対応は早かった。6か月の停止処分を要求した翌日にはスペイン全国のメディアに対しクラブとしての正式なコメントを送っている。 時代は1990年というのに、まるでフランコ時代のようなコメントだった。いずれにしても何週間も続いた協議の末、ストイチコフに対する処分は2か月出場停止処分ということで結末をみた。 |
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