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クライフにとって正念場となるこの3年目のシーズン、バルサは驚異的なスタートを切る。
第1節 エスパニョール - バルサ 0-1 8試合を消化した段階で7勝1分けという、これ以上は望めない成績だった。第9節にAt.マドリに初の敗北を期すものの、その後も快調に飛ばしていくバルサだ。だがこのAt.マドリ戦ではその敗北以上に痛い事件が起きていた。クーマンが試合中に負傷したのだ。それも全治5か月の重傷であった。
第19節、リーグ前半の折り返しに当たる試合はカンプノウでレアル・マドリを迎えてのものだった。1991年1月19日、この段階でバルサはマドリに8ポイント(当時はまだ勝ち点2ポイント制)差をつけており、もしこの試合に勝利するようなことがあれば10ポイント差でリーガ後半を迎えることになる。 クーマンは負傷中であり、ストイチコフは制裁期間が始まったばかりであった。だがこの試合は色々な意味でバルサにとって記念となる試合となった。まずバルサの監督にクライフが就任してからの最高の内容を持った試合となったこと、ラウドゥルップの決めたゴール(左ウイングのゴイコエチェアからのセンターリングを中盤から走りながら決めた)が、その後も続くクライフ時代の中でも最高にスペクタクルなゴールの一つとして記録されたこと。そして2か月半ぶりにフェレールが負傷から戻ってきた試合だったこと。さらにいえば、この勝利によってリーグ優勝に向けての大きなステップとなった試合でもあった。19試合を戦って14勝2敗3分けで前半を折り返したバルサだった。 この頃のバルサは、後に「ドリームチーム」と呼ばれるほどのスペクタクルなチームに成長していく過渡期を迎えていた。シーズン開始早々の快進撃は、これまでクライフバルサが成し遂げられなかったこと、つまりカンプノウを毎試合のようにバルセロニスタで埋め尽くしていくことを可能にしてきていた。ベナブレスの最後の時期には毎試合4万人前後という観客数だったものが、今ようやく9万人近い観客を呼び戻すことに成功していた。それはチームの成績が良いということ以上に、スペクタクルなフットボールが見られるという理由によるものだった。 だが良いことばかりがあったわけではない。シーズン開始と共にフェレールやクーマンの負傷という思いがけないことがあったが、その不幸な出来事がクライフにも襲ってくる。それも非常に衝撃的な事件として。 クラシコから1か月経過した日、クライフの息子であるジョルディはバルサの下部組織で練習に励んでいた。ジョルディのもとに彼の叔父が血相をかえて走りよってきた。父クライフが心臓発作で緊急入院したことを知らせるためだった。 クライフが緊急入院した病院名はサン・ジョルディ医院。奇しくも息子の名前と同じだったが、カタルーニャにはよくある名だ。そもそもカタルーニャ州のパトロンの名前がサン・ジョルディなのだから。それは別として、緊急手術を受けたクライフは手当が早かったことにより命を救われる。心臓に2本のバイパスが通された。手術を担当した医師は記者会見を開き「手術は大成功」と声明する。そしてクライフの運の強さを強調することも忘れない。 クライフの抜けたベンチで新たに指揮をとることになったのはコーチであったレシャック。クライフが手術しているまさにその時、カンプノウで代理監督として最初の試合の指揮をとっていた。国王杯の試合で相手はラス・パルマスということもあり観客席には2万人しか人が集まっていなかった。だがその少ない人々のほとんどがラジオを手にしていた。クライフの手術の結果を今か今かと待っていたのだ。そしてこの試合、6−0でバルサが圧勝する。クライフ不在のバルサが2か月近く続くことになるが、それでも機械と化したバルサは止まらない。快進撃を続ける。 リーガが終了してみれば圧倒的な差でバルサが優勝していた。2位のAt.マドリに10ポイント、レアル・マドリに11ポイントの差をつけていた。事実上の優勝が決まったカディス戦(この試合には負けたが2位のAt.マドリが負けたため、リーグ戦4試合を残して優勝が決まった)から3日後にレコパの決勝戦でマンチェスターに敗れたとはいえ、この敗北がリーグ優勝を喜ぶバルセロニスタに与える影響はほぼ皆無だったと言っていいだろう、ただ一人を除いて。 その一人はクライフだった。クライフは二度目のレコパ獲得を逃したことを非常に悔しがっていた。そして試合後に語るクライフ。 |
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