57 ジョセップ・グアルディオーラ(90−91) 

クライフバルサ3年目となる1990−91シーズン。このシーズンが開始される前にルイス・ミージャがレアル・マドリに移籍している。このシーズンで契約が切れることになっていた彼は、多くの時間を費やしてクラブと延長契約交渉をおこなっていた。だが彼の要求する年俸とクラブ側が提示したそれとは大きな差があり、この交渉にクライフが参加し始めることにより決別は決定的なものになる。クライフにしてみれば、チームカラーを愛さない選手は必要ないということであり、これ以上の交渉はムダだということで途中でうち切られ、それ以来彼はベンチにも入れなくなった。また真実かどうかは別として、メディアの間ではかなり昔からマドリが彼の獲得に裏で動いており、すでに仮契約も済んでいるという噂が流れていた。

クライフにとっては、ミージャの抜けたポジションはアモールが埋めればすむ問題だった。そしてバルサBには、まだ細身でスピードはないもののグアルディオーラというクライフにとって興味ある選手がやはり同じポジションにいた。

1990年10月12日、クーマンはAt.マドリ戦で5か月の重傷を負う。それまで彼は試合によって二つのポジションを監督のいわれるままにこなしていた。守備の要であるセントラールと、試合の組み立てのキーポイントとなる「4番」のピボッテだ。彼の負傷が非常に深刻なものであり長期にわたって復帰の可能性がないことがわかった段階で、会長のヌニェスはクライフにシーズン途中の補強選手の必要性があるかどうか問いただしている。
「クーマンが長期にわたって出場できないことがわかった日に、誰か彼の代わりになる選手がいるのかどうか聞いてみた。クライフの答えはリバプールのモルビーが欲しいという。このモルビーという選手はシーズン前にも彼の口から聞いたことがある。だがクラブのスカウト陣が言うには、バルサには必要ない選手だろうということで立ち消えになっていた選手でもある。彼がなぜモルビーに固執するのかよくわからなかった。多分、バルセロニスタでモルビーを知っている人は一人としていなかっただろうと思う。しかも彼は中盤の選手で守備には使えない選手ということぐらいは私にもわかっていた。そして我々が得た情報では、リバプールは何人もの代理人を動かしてモルビーを売って商売しようとしていることも知っていた。そんなこともあって私はクライフに言ったんだ。『監督のあなたが必要というのなら、会長の私の役目はその選手を獲得することにあることはわかっている。フットボールの技術的なことに関しては私はシロウトだから、その選手の評価は差し控えよう。だが私にも条件がある。もし彼がバルサに来て、クーマンの抜けた穴をうまく埋められないようならそれなりの責任をあなたにとってもらうことになるだろう。それでもいいのなら私は彼の獲得に走ろう。』とね。」

ヌニェスの脅しに怖じ気づいたのか、あるいは単に気が変わったのか、クライフはモルビーの獲得を簡単に諦める。そしてクーマンの抜けた穴をグアルディオーラを起用して埋めることをヌニェスに告げる。

だが皮肉なことにグアルディオーラが本格的にスタメンで出場するのは、クーマンが負傷から戻ってくる次のシーズン(91−92)からだった。この今から始まるシーズンではカディス戦でスタメンデビューするものの、リーグ戦では合計2試合しか出場していない。ベンチに座っているか、あるいは2部Bの方の試合に出場するかというシーズンを送ることになる。次のシーズンにクーマンのポジションがセントラールというところに落ち着いたことが、グアルディオーラが本格的に活躍する契機となったのだ。

ホルヘ・バルダーノ、かつてのレアル・マドリの選手であり、アルゼンチン代表選手でもあった彼は当時テネリフェの監督をしていた。そして彼はこれから登場してくるグアルディオーラをかなり前から高く評価していた一人でもある。その彼が一言、グアルディオーラについてコメントしている。
「彼のプレースタイルは、村出身者の誇りから来るものだろう」

その意味を誰よりも理解することができたのは当人のグアルディオーラだった。
「村で生まれ育つということは、どういうことだかわかる? つまりね、石だらけでデコボコの道でボールを蹴って遊べるというとなんだ。車や人通りの多い街では決して不可能なことが村ではできる。家の壁を仲間に見立てての文字通りの『壁パス』もできるんだ。街の中で育っていたら、僕みたいに一日中ボールを蹴って外で過ごすことなんかできなかっただろうと思う。バルダーノが言うのは多分そういう意味だよ。」

そしてカディス戦でデビューを飾ったあと、彼はインタビューに答えて次のように語っている。
「状況が僕に味方をしてくれた。ミージャはもういなかったし、クーマンは負傷中、そしてアモールがカード制裁で出場できなかったことにより僕にチャンスが回ってきた。僕は長いことマシアで共同生活していて、多くの同僚がこういうチャンスが回って来ないでいつの間にか実家に帰ってしまうというのをこの目で見ている。試合に出場できるかどうかということは、あるいはそういうチャンスが訪れるかどうかということは、ほんの紙一重の幸運で決まってしまうものだということをマシアで学んだんだ。もちろんそういう幸運に感謝すると共に、僕を信じてチャンスをくれた監督にも感謝している。監督が僕を信じてくれなければ、どういう状況であろうとチャンスは来ないわけだからね。」

13才でマシアに入寮したグアルディオーラは、そこの先輩であるアモールを師と仰いでいた。そして彼の日常生活はまさにカンプノウと共にあった。午前中はカンプノウの近くの学校に通い、午後はカンプノウの脇にあるグランドで練習する日々が続く。自由時間にはカンプノウが目の前に見える部屋の窓際に座り、読書に明け暮れる若者だった。カタルーニャ地方の詩を好み、カタルーニャの音楽を愛する。だが彼のもっとも愛するものはフットボールであり子供の頃からの憧れのバルサであった。カタルーニャプレスに流れた彼の最初の写真、それはカンプノウでの試合でのボール拾いをしているときの写真である。ベナブレスが監督をしている時代にイエテボリ相手の準決勝。3点差をひっくり返さなければいけないこの試合で、ピッチ・アロンソがその3点目を入れたときに、彼はグランドの中に飛び込み彼に抱きついている。その写真を撮られてしまったのだ。ボール拾いはグランド内に入ってはいけないというクラブの決まりを破っての行為だった。

そのグアルディオーラが本格的に出場してくるシーズンが始まろうとしていた。彼にとっては、まだどこまでやれるかわからない時期ではある。だがそのシーズンを境に彼はカンテラ出身選手のシンボルとして、長い間バルサの中心選手の一人となる。