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ヨーロッパクラブのチャンピオンを決める大会、それを当時はコパ・デ・ヨーロッパと呼ばれていた。現在のチャンピオンズリーグと違い、各国リーグの前年度優勝チームだけが参加できる本当の意味でのチャンピオンだけで戦われる大会だった。夏の間におこなわれる予備選を経て、最終的に残った32チームによって優勝を争われるこの大会の方式は次のようなものだ。まず最初と2回目の対戦はホームアンドウエー方式による勝ち抜き戦となる。そしてこれに勝ち残った8チームが抽選で2つのグループに分けられ、グループ内総当たりの試合をおこなう。そしてそれぞれグループ1位のチームによって決勝戦が戦われることになる。
抽選の結果、バルサの最初の対戦相手は東ドイツのハンサ・ロストックというクラブ。1991年9月18日カンプノウでの試合はバルサが3−0でこのドイツのクラブを敗っている。2週間後におこなわれた敵地の試合で1−0と敗れるものの、次のラウンドに問題なく進むバルサ。 残り16チームとなったところでバルサが当たる相手は再びドイツのクラブ。だが今回は西側の強敵カイゼルローテンだ。最初の試合を再び地元カンプノウでスタートすることになる。10月23日、バルサはチキ・ベルギンスタインの2ゴールで勝利する。だがアウエーでは非常に苦しい試合となるバルサだ。
コパ・デ・ヨーロッパのタイトルを争うクラブは8チームに絞られた。そして抽選の結果、バルサと同じグループに入ったのはベンフィカとスパルタ・プラガ、そしてディナモ・キエフだった。 初戦(91年11月27日)を地元カンプノウで3−2とスパルタ・プラガを敗り、2戦目(91年12月11日)もリスボンへ行ってのベンフィカ戦で貴重な引き分けの1ポイントをあげる。グループの抽選が決まった時から、このスエーデン人監督ゴーラン・エリクソン率いるベンフィカが最大のライバルと見られていただけに、敵地での引き分けは大きな価値があった。年が明け3月に再開された戦いの相手はディナモ・キエフ。ます3月4日、アウエーでの試合で0−2とキエフを倒すバルサ。そして3月18日にカンプノウでおこなわれた試合でも3−0で勝利し、グループ優勝への大前進を遂げる。だが2週間後(4月1日)におこなわれた敵地でのスパルタ・プラガ戦に敗れ、最終試合となるカンプノウでのベンフィカ戦に勝利が義務づけられることになる。 4月15日、この大事な試合を前にしてカンプノウには久々の10万観衆によって埋め尽くされていた。どうしても勝たなければならない試合。バルサという歴史あるクラブに唯一欠けているタイトル、コパ・デ・ヨーロッパのタイトル獲得に向けた決勝戦に出場するためにはどうしてもベンフィカを敗らなければならない。そして10万観衆の期待に応えバルサは2−1で勝利し、ウエンブリーでおこなわれる決勝戦に進出を決めた。
1位バルサ 9ポイント 1956年から始まったクラブ単位におけるヨーロッパ一位を決めるこのコパ・デ・ヨーロッパ大会。これまでバルサは2回にわたり決勝戦に進出している。1回目は1961年5月31日、スイスのベルナでおこなわれたベンフィカとの決勝戦。バルサはクバーラ、ルイス・スアーレスという、その100年のクラブ歴史にも残る大スター選手を擁しながらも敗北した。そして1986年5月7日、セビージャ・サンチェス・ピスフアンでのステアウア・デ・ブカレストとの決勝戦。シュステルを擁し監督はテリー・ベナブレスというバルサ。彼らを応援するために何と5万人のバルセロニスタがかけつけたにも関わらず、ペナルティー戦で涙をのんだ。「ベルナの悲劇」そして「セビージャの悲劇」として今でもソシオの間で語り継がれている悲しい歴史だ。 そして今、再びチャンスがやって来た。初めてのヨーロッパチャンピオンになれるチャンスが再びやってきた。3回目のチャンスがやって来たのだ。相手はブハディン・ボスコフ率いるイタリアの強豪サンプドリア。そしてバルサは強運ヨハン・クライフが率いる。タイトルを争う舞台もこれ以上の場所は望めないほどの素晴らしいところだ。誰もが一度はプレーしていたいと夢見るウエンブリー。そのウエンブリーでの決勝戦。条件はすべて揃っている。今度こそ、今度こそ、ヨーロッパを征するチャンスだ。 |
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