59 チャンピオンとなった日(91−92) 

1992年5月19日火曜日 12:00
カンプノウの敷地には200台近くの大型チャーターバスが止まっている。翌日のウエンブリーでの試合を観戦できるソシオは2万5千人までと決まっていた。ソシオのみを対象とした抽選により、このチケットを手にした人々の半数近くがこのバスによってロンドンまで行くのだ。その数約1万人。延々24時間かけてバルセロナ・ロンドン間の旅となる。残りの約1万5千人は定期便やチャーター便を利用して空路でドーバー海峡をわたるか、あるいは車を利用してロンドンにたどり着くことになる。

1992年5月20日水曜日 19:00
伝統あるウエンブリー・スタディアムには2万5千人のバルセロニスタがすでに席についている。大半のバルセロニスタはカタルーニャ旗とバルサの旗を持ってすでに応援態勢だ。試合開始まであと1時間。

1992年5月20日水曜日 19:59
この試合にのぞむにあたってクライフが用意したスタメン選手は次のようなものだ。
スビサレッタ、ナンド、フェレール、クーマン、フアン・カルロス、グアルディオーラ(アレサンコ)、エウセビオ、バケーロ、ストイチコフ、サリーナス(ゴイコ)、そしてラウドゥルップ。

対するサンプドリアは、パリューカ、マンニーニ、ランナ、ビエルコフ、カタネック、ロンバルド、パリ、セレッソ、ボネッティ、ビアーリ、そしてマンチーニの11人。

1992年5月20日
コパ・デ・ヨーロッパ決勝戦
バルサーサンプドリア

バルサの選手がグランドに出ようとしている時、クライフは次のような言葉を与えている。
「これまで多くの苦しい戦いが続いてきた。そのかいがあって我々は今ウエンブリーにいる。芝の状態も素晴らしいし、観客席はバルセロニスタで埋め尽くされている。このようなステージで苦しみ抜いての試合なんて意味がない。いいか、我々は楽しみに来たんだ。さあ、みんな、好きなだけ楽しんでくると良い!」

バルサの攻撃的なフットボールに対し、機を見てのスピード感あふれるカウンターアタックで得点を狙うサンプドリア。バルサは再三のゴールチャンスを得ながらも得点できない。90分間が過ぎ、そして延長戦の前半も終わりを告げていた。残るは延長戦後半15分、もしそれで決まらなければPK戦となる。多くのバルセロニスタが「セビリアの悲劇」を脳裏に浮かべたとしても不思議ではなかった。そして後半6分、エウセビオの巧妙なプレーによってサンプドリアゴール前付近でのファールを誘う。途中交代してベンチに座っていたサンプドリアのスター選手ビアーリは、クーマンの蹴るであろうそのシーンを見たくないとでもいうようにタオルで顔を覆っていた。

1992年5月20日水曜日 22:30
バルセロナの市役所広場プラサ・デ・サンハイメの時計台は、22時30分を指している。バルセロナの通りには車や通行人はほんのわずかしかいなかった。どこまでもシーンと静まりかえる街。ウエンブリーに行けなかった多くのカタラン人や、全国に広がるバルセロニスタは息をこらしてテレビの前に座っている。この瞬間、そう、1分前でもなければ1分後でもないこの瞬間、ロナルド・クーマンの度肝を抜くフリーキックが放たれる。彼の右足から放たれたボールはサンプドリアの選手たちが作る壁をすり抜け、そしてキーパーのパリューカの右をも一瞬のうちに通り抜けてゴールネットに突き刺さる。テレビでは解説者が「クーマン! クーマン! クーマンゴール! クーマンゴール!」と絶叫を続ける。バルサが0−0の長い均衡状態を破り、ついに得点をあげた瞬間だ。それも勝利につながる、ヨーロッパタイトル獲得につながる「貴重」という言葉では軽すぎるほどの貴重なゴールだった。

念願のヨーロッパチャンピオンに初めて輝いたバルサ。試合終了の笛が吹かれると、カタルーニャ広場やランブラス通りには何十万という人々が押し寄せた。通り沿いの商店を経営をしている年輩の人々も泣き顔を隠そうともしない。若者たちは、バルサの旗とカタルーニャ旗を振りながら走り回っている。バルサにとって念願のヨーロッパチャンピオンに輝いたこの夜、永遠に続くかと思われるほどの長いフィエスタがカタルーニャのすべての街や村でおこなわれた。フィゲーラスで、シッチェスで、ビックで、モンセラットで、ジローナで、タラゴナで、レリダで、マジョルカで、そしてバルセロニスタが集まるすべての街や村で、永遠に終わりを見ないかのようなフィエスタが続く。彼らにとって最大の日がついにやって来たのだから。

クライフバルサがウエンブリーでヨーロッパチャンピオンになったことは非常に象徴的なことでもあった。なぜならこの年からさかのぼること21年前、つまり1971年、クライフがアヤックスの選手としてパナシナイコス相手に初のヨーロッパチャンピオンに輝いてたスタディアムは、この時と同じウエンブリーだった。そしてそれ以来「トータルフットボール」と呼ばれる魅力的なフットボールが展開されていくことにもなる。

翌日、バルサの英雄たちがロンドンから戻ってくるのを迎えるために、空港には何時間も前から1万人前後の人々が押し寄せていた。そして空港から選手を乗せたバスは、街の目抜き通りであるグランビア通りを抜けてメルセ教会へ優勝報告をするために向かう。この空港から教会までの十数kmの間には、何と50万人のバルセロナ市民がバスをの通るのを待ちかまえていた。普段なら空港からメルセ教会までは30分もあれはじゅうぶん到着できる。だがこの日ばかりは3時間ほどかかってやっと目的地に到着することになる。

一方、市庁舎と州庁社があるプラサ・デ・サンハイメにも多くのバルセロニスタが選手の到着を待っていた。メルセ教会で優勝報告を済ましたあと、再び選手を乗せたバスは騎馬警官の先導のもとに、このサンハイメ広場に向かう。広場の時計台が20時を指そうとしているとき、12人の騎馬警官が選手の乗ったバスを先導して広場に入ってきた。決勝戦に出場した選手だけではなく、すべてのバルサの選手がバスから降りてくる。

スビサレッタ、フアン・カルロス、フェレール、クーマン(1ゴール)、グアルディオラ、ナダール、ゴイコエチェア(1ゴール)、ストイチコフ(4ゴール)、ラウドゥルップ(3ゴール)、ビチケ、エウセビオ、チキ(2ゴール)、クリストバル、セルナ、サリーナス(2ゴール)、アレサンコ、ナンド、アモール(1ゴール)、そして偉大なカピタン・バケーロ(3ゴール)。バルセロニスタにとって永遠に忘れることのできない19人の英雄たち。そして彼らを率いた天才ヨハン・クライフ。いま彼らはバルセロナのシンボルの一つである市庁舎のバルコニーに向かおうとしている。