72 “ドリームチーム”の崩壊(93−94)

ミランとの決勝戦にラウドゥルップは出場していない。彼は試合に招集もされず観客席に座る一人となっていた。試合後、彼はチーム同僚とバルセロナには向かわず、一人で直接コペンハーゲン行きの飛行機に乗っている。もう彼はバルセロナに帰る必要はなかった。なぜなら半年も前からレアル・マドリへの移籍が決まっていたからだ。シーズン終了と共にバルサとの契約が切れる彼にとって、すでにバルサ時代は終了していた。もうクライフのやり方には我慢できなかったラウドゥルップ。メディアを通じて常に批判されることにはもう我慢できなかった。もっと一人の選手として、これまで輝かしい経歴を残してきた一人の選手として、尊重してくれるクラブに行く必要を感じていた。もっともクライフにしても彼はかつてのラウドゥルップではなかった。多くの関係者やバルセロニスタから批判を受けながら、クライフの一存でユベントスから引き抜いたラウドゥルップ。だがそのクライフにとっても、今の彼はすでに当時のラウドゥルップではないという判断だった。

アテネからの帰りの飛行機の中、クライフとクラブ会長のヌニェスは珍しく並んだ席をとって座っている。彼らには話さなければならないことが山のようにあったのだろう。この思いがけない敗戦、そう、彼らにしてみれば思いもしなかった敗戦からくるであろう“一つのサイクルの終焉”をどう乗り切るかが緊急に話されなければならないことだった。

ラウドゥルップとの再契約は問題外だった。すでにマドリとの交渉が半年前からおこなわれているということは周知の事実だった。クライフにはスビサレッタの存在も必要ないようだった。サリーナスも必要ない選手だった。彼らは飛行機がバルセロナに到着し、カンプノウへ向かうバスの中でこの決断を聞くことになる。ほんの少し前に4点ものゴールを入れられショック状態のスビサレッタには、限りなく“人間性”にかけた扱いだと思われた。一説によれば、スビサレッタの解雇はオリンピック・スタディアムからアテネ空港に行く際のバスの中で伝えられたとも言われている。だが当事者たちはこのことについていまだに語らないため、確かなことはわからない。いずれにしても、バルセロニスタに直接のサヨナラの挨拶をすることを許されずバルサを去ることになるスビサレッタだった。だがクライフにしてみればそんなセンチメンタルな問題はどうでもいいことだった。彼はそれまでも愛された選手がクラブを去る際によく語っている。
「フットボールにセンチメンタリズムは通用しない。もしそんなもんが通用するんだったら、私もまだ現役でやっているかも知れない」

フリオ・サリーナスもスビサレッタと同じ状況に置かれた選手だ。長年プレーしたバルサというクラブをファンに挨拶できずに去らなければならなかった。だが彼は非常に現実的な考え方をする選手の一人だった。
「スポーツ選手に永遠なんてことはあり得ない。いつかは所属したクラブを去らなければならない。その時に良い去り方ができるかどうか、そういう問題は当然あるとしても、クラブと選手は一つの契約を結んでいるプロフェッショナルな関係。俺の契約はスビやラウドゥルップと同じように今年切れることになっていたのだからしかたがない。」

ビルバオのカンテラとして育ち、クレメンテが監督となったときに一部に抜擢されたサリーナス。1988年、クライフに認められてバルサに入団してきた彼は、その後ストイチコフやラウドゥルップの加入、特にロマリオの加入によってスタメンで使われる回数は少なくなったものの、バルセロニスタにとっては“ここぞ”という時の切り札選手だった。どうしてもゴールが必要な場面でクライフも彼を起用し、そして期待に応えてきたサリーナスだ。彼はプンタのポジションを自然とする選手でありながら、いわゆる典型的な“9番”の選手ではなかった。彼は“9番”以上の何かを持っている選手だった。

クライフの言葉を借りて彼の特徴を示してみよう。
「彼のいくつかある特徴の中で特に光っているもの、それは自分に対する絶対の自信だ。どんなクラックがバルサにいようと、常に自分が一番だと信じ自分がスタメン選手でなければならないと思っていた選手。だからどんなに難しい状況の中で交代出場させられても、プレッシャーを感じない非常に希少価値な選手だった。しかも彼の自信は根拠のあるものだから、必ずと言っていいほど期待に応えてくれた。一見、とても不器用そうに見えて実はそうではなく、相手ディフェンスに倒されそうで決して倒れることなく、ボールを簡単に奪われそうで実はボールを体の中に隠すテクニックに優れていて、そして簡単なゴールをものの見事に外し、これは入らないだろうというゴールをいともたやすく決めてしまう選手。一言で言うと“意外性”の固まりみたいな選手と言える。」

クライフが監督としてバルサに来た1988年、すでにスビサレッタはバルサの貴重なキーパーとして活躍していた。この1994年6月に契約が切れることになったいた彼はすでに33歳となっていた。ラウドゥルップは30歳、サリーナスにしてもすでに31歳となっていた。クライフが来た年に同じようにやって来たバケーロにしてもチキにしてもすでに三十路に入っていた。

1988年から始まったクライフバルサだが、毎年のように少しずつではあるが将来性が見られる選手を補強してきたクライフ。だがそれが必ずしもうまく機能してきたわけではなかった。確かにクライフが語るように「一つのサイクルが終わろうとしている」状況ではあった。“ドリームチーム”と親しまれた偉大な選手によって構成されていたグループは、音をたてて崩れようとしているかのようだった。それほどアテネでの敗北は重たいものだった。クラブ理事会にとっても、クライフにとっても、選手たちにとっても、そしてバルセロニスタとっても非常に重たい敗戦であった。事実、その後のバルサの状態がそれを証明することになる。バルセロニスタが心の底から楽しむことができた“ドリームチーム”は崩壊しつつあった。

スビサレッタ、サリーナス、ゴイコエチェア、フアン・カルロス、キケ・エステバランスが1993−94シーズンを終了した段階でバルサを去ることになり、その次のシーズンには多くの選手が入団してくることになる。スポルティングからアベラルド、ログローニェスからロペテギ、マドリからジカ・ハジが入団してくる。そしてエスパニョールからエスカイチとコルネイエフ、オサスナからホセ・マリ、ビルバオからエスクルサといった選手が入団してくるが、このシーズンが終了すると共にどこかへと消えて行ってしまっている。

クライフバルサにとって、そしてバルセロニスタにとって、短い秋が突然やって来て、さらに早めの冬が訪れようとしていた。