71 天国から地獄への4日間の旅(下)

多くのバルセロニスタがアテネに到着している。その数22000人。人数的には2年前のウエンブリーの時とほぼ同じだ。だが多くのバルセロニスタから感じる雰囲気は2年前のものとは明らかに違っている。楽観的な雰囲気、ひたすらなまでに楽観的な雰囲気が彼らから伝わってくる決勝戦。だが、それはアテネに集合したバルセロニスタだけではなかった。クラブ首脳陣をはじめ、コーチングスタッフ、選手たち、そして彼らを24時間追い回していたカタランメディアにしてもウエンブリーの時とは比べものにならないほど超楽観的だった。

2年前の1992年5月、ウエンブリーでの決勝戦を前にしたクラブ関係者は、多くのバルセロニスタに対して“慎重さ”を何回にもわたって訴える声明をおこなっている。彼らにはまだ“セビージャの悲劇”が脳裏から離れないためだった。あの試合前には、異常なまでの楽観主義的傾向がクラブを包んでいた。ほぼ地元同然といえるセビージャでおこなわれる決勝戦だからゆえに、自然と楽観視してしまった。だがそのような“楽観的”な雰囲気の中での試合で敗北することは、敗戦時のショックが2倍にも3倍にもなることを学んだクラブ関係者だ。だからこそウエンブリーの試合前にはしつこいまでに“慎重さ”を要求した。

だが、その“慎重さ”を要求した同じクラブ関係者だというのに、このアテネでは彼ら自身に“慎重さ”が欠けることになる。ウエンブリーでの勝利が、わずか2年前の勝利が、彼らに“慎重さ”を失わせてしまった。それは試合前日だというのにクラブ理事会メンバーやクライフをはじめとするコーチ陣が楽しそうにアクアポリスで写真を撮っているシーンにも見て取れた。多くのメディアが、カタルーニャメディアだけではなくほとんどのスペインメディアや世界中のメディアが“バルサ圧倒的優位”をうたっていたことと関係があるかも知れない。この異常なまでの楽観主義が生まれたのも理解できることではあった。それは、ここまでのバルサの成績をみればわかることだ。2月からのバルサはリーグ最終戦まで15試合を戦って13勝2分けという成績を残している。コパ・デ・ヨーロッパでも4試合戦って3勝1分け。つまり合計19試合を戦って16勝3分け、そして負け知らずという抜群の成績を残していたバルサだった。

それでも試合は戦ってみなければわからない。一つの試合が独自の歴史を作るように、90分の戦いでは何が起きても不思議ではない。まして相手は下降線状態にあるとはいうものの何と言っても伝統あるミランであり、しかもコパ・デ・ヨーロッパの決勝戦なのだ。

1994年5月18日、アテネのオリンピック・スタディアムにはほぼ同じ数のバルセロニスタとミラニスタが集まっていた。

この試合にはミランにとって重要な二人の選手がカード制裁で出場できない不運があった。カピタンのバレッシとコスタクルタは観客席からこの決勝戦を観戦することになる。ミランの監督ファービオ・カペーロが準備した11人、それはロッシ、タソッティ、パヌッチ、アルベルティーニ、ガリ、マルディーニ、ドナドーニ、デサイリー、ボバン、サビセビッチ、マッサーロ。それに対してクライフ・バルサの11人はスビサレッタ、クーマン、ナダール、フェレール、セルジ、ペップ、アモール、チキ、バケーロ、ロマリオ、ストイチコフという面々。

1994年5月18日
コパ・デ・ヨーロッパ決勝戦
バルサーミラン
この試合で、バルサのディフェンスはいつものように機能することが不可能なまま90分を終わる。中盤はほぼ存在していなかったと言っていい。ロマリオ、ストイチコフはリーグ戦後半やコパ・デ・ヨーロッパ戦で見せた冴えを一切みせることなく90分を終えることになる。ベンチにいるクライフも普段のイマジネーションの片鱗も見せないまま90分ベンチに座ることになる。つまるところ、このミランとの決勝戦に“バルサ”は存在していなかった。90分を通じて我々の知っているクライフバルサは存在しなかった。

すべてのミランの選手が、すべてのバルサ選手よりも素速く見える試合だった。ミランのすべての選手が、バルサのすべての選手にプレッシャーをキッチリとかけている試合に見えた。ミランのすべての選手が、バルサの選手より一歩先んじてボールを奪っていくように見えた試合だった。そしてミランの監督であるファビオ・カペーロのなすことすべてが、バルサの監督であるクライフの思惑をつぶしていくように見える試合だった。

理由はいろいろ考えられる。バルサにはわずか4日間の準備期間しかなかったのに比べ、ミランには2週間という時間の余裕があった。肉体的にも精神的にも疲労困憊状態にあったバルサの選手に比べ、ミランの選手たちは体力的にも精神的にも十分な状態だった。だがいかなる理由があろうと、このアテネのオリンピック・スタディアムでプレーしたバルサは今シーズン最悪のバルサであったことは事実だ。最も素晴らしいプレーをしなければならないその試合でバルサは最低の試合をしてしまった。

何年もたってからこの試合のことをストイチコフが振り返っている。
「前半に2点のリードを許したとは言え、ハーフタイムでは我々はまだまだひっくり返せる試合だと思っていた。だが“大惨事”は彼らの3点目が入ったときにやって来た。サビセビッチが入れた3点目が我々を完全にノックアウトすることになった。あとはもう試合が1分でも早く終わることを願うような試合だった。4点で済んだことを神様に感謝しなければならないような試合でもあった。我々よりミランの方が圧倒的に強かったんだ。少なくてもあの試合ではな。」

クライフがわずか4日前に語った言葉が印象的だ。セビージャとの最終戦でバルサが勝ち、コルーニャがバレンシアと引き分けたために優勝したあの試合後に興奮しながら語った言葉。
「幸運は常に探さないとやって来ない。我々は常に幸運を探し続けてきたんだ。そして私は神様の友達でもあるんだ。」
クライフは神様と友達でもある。あまりにも興奮状態にあったことにより生まれた言葉なのか、あるいは軽い冗談としてでた言葉なのか、あるいは、そう、あるいは単なる思い上がりの言葉だったのか、それは誰にもわからない。

だが確かなことが一つだけある。クライフがバルサに注入したスペクタクルなフットボールが多くのファンを作ったとように、同時に多くの“挑戦者”も作ることにもなったことだ。「フットボールは攻撃である」そうクライフが監督就任の時に語ったとき、それは同時にワンタッチでのボール処理で素速いボール回しをし、常にボールを支配しての攻撃フットボールを意味した。だが「フットボールはスペクタクルでなければならない」というアイデアに反感を抱く監督も当然ながら存在した。クライフフットボールをじゅうぶん研究し、その弱点をつくことで“小生意気なフットボール”を木っ端微塵に破壊してやろう、そう考えた監督も決して少なくはなかった。皮肉にも“ドリームチーム”が崩壊するきっかけを作ったミランというチームの監督は、そういうアイデアを誰よりも人一倍もった監督だった。