86 クライフ壮行試合(クラブ創立百周年)

クラブ創立百周年式典がカンプノウでおこなわれてから3か月ほどたった1999年3月10日、あの式典とは違う意味で一連の百周年記念行事のハイライトとも言っていいイベントがやはりカンプノウでおこなわれた。クライフがまだバルサの監督として在籍していた当時の契約書に約束されていたクライフ壮行試合、この売り上げがクライフの懐に入るものだということはメディアを通じてすべてのバルセロニスタが知っていた。だがこの試合が契約書にあろうとなかろうと、売り上げが誰の懐に入ろうと入るまいと、それは大した問題ではなかった。理由がどうであれ、クライフの壮行試合がおこなわれること自体が多くのバルセロニスタにとって大切なことであったからだ。

バンガールバルサがクライフバルサよりも多くのタイトルを獲得することは可能かも知れない。だがフットボールは快適な午後を過ごすための一つの“ゲーム”であり、チームカラーを感じるセンチメンタルなものであり、見知らぬ旅への冒険を可能としてくれるものであると信じる人々にとって、バンガールバルサは非常に物足りない存在だった。だから、そう、だからこそ、この試合に駆けつけることは彼らにとってほぼ“義務”と言ってよかった。再び、かつての楽しい旅のお供をするために。

かつての“ドリームチーム”を構成したすべての選手たちがかけつけている。白いユニに着替えてカンプノウにやって来た時に“ユダ”と呼ばれた、あのラウドゥルップも今回は大きな拍手で迎えられた。バンガールにこの試合への出場を禁止されたアモールとフェレールはカンプノウの隅からかつての同僚たちに拍手をおくっている。前菜はバルセロニスタにはお馴染みとなっているクライフ・ロンド。バンガールバルサ相手の試合はメインディッシュとはならなかった。なぜなら試合が終了したあとのクライフの挨拶がメインとなったからだ。

「ドリームチームの戦いのスタイルというものは、私が作り上げたものでもスタッフテクニコが作りだしたものでもない。この戦いのスタイルというのはバルサというクラブの、百年という長い歴史を持つバルサというクラブの存在基盤そのものがこういう戦い方をさせたに過ぎない。つまり10万ソシオの、あるいは世界中に散らばるバルセロニスタが要求するバルサの戦い方に過ぎない。どこのバルセロニスタがカウンターアタックを得意とするバルサを望むと思う? 何人のバルセロニスタが守備的なバルサを望むと思う? 私に言わせればそれは皆無だろう。一人としてそんな戦い方をするバルサを望む者はいないだろう。カンプノウの自分の席にやって来て、さて今日も快適な午後の一時を過ごそう、そういう想いを抱いて試合にのぞもうとしているのが私の理解しているバルセロニスタだ。快適な午後、それはスペクタクルなフットボールでありゴールであり、もちろん最後には勝利だ。そしてカンプノウの隣にあるスタディアムで長年見てきた若者たちがそのスペクタクルを構成する一員となっていれば、そう、それに越したことはないのさ。」

長年の歴史が作り出してきたバルサというクラブのチームカラー、それとヨハン・クライフという個人としての人間のカラーがこれほどまでに見事に調和したのはかつて例を見ないことであり、最盛期の“ドリームチーム”時代にグランドと観客席がこれほど一体化した例も見ないだろう。そこにロブソンの不幸があり、同時にバンガールの限りない不幸があった。

クライフバルサの絶頂期と言って良い1991年あたりから1994年頃まで、バルセロニスタにとって“フットボール”とは“クライフ”との同義語であった。フットボール、それは90分間にわたって繰り広げられるシナリオのない旅への誘いでもあった。一部カテゴリーに上がってきたばかりのレイダやサンタンデールにポロッと負けることもあったし、絶対本命と見られていたアテネでの決勝戦では木っ端微塵に粉砕されてしまったクライフバルサ。だがそれでもマドリ相手に5点をあげ、ビルバオには6点をぶち込み、マンチェスターには監督のファーガソンに「歴史的な完敗」と言わせた4−0の試合を展開したクライフバルサ。3年連続してリーグ戦最後の試合に勝利することにより劇的なリーグ逆転優勝を遂げてしまうクライフバルサ。クラブ史上初めて獲得したコパ・デ・ヨーロッパのタイトルにしても延長戦に入ってからの、それも延長戦後半終了間際のゴールによる勝利だった。シナリオのないドラマ、まさに行き先のわからない90分間の旅を楽しませてくれたクライフバルサだった。

バルセロニスタに見知らぬ地への旅を展開してくれた選手たちと監督たち。旅の同行者であるチームとバルセロニスタは常に一つだった。したがってチームが90分間にわたって導き出した“結果”は、同時にすべてのバルセロニスタの“結果”でもあった。勝利すればひたすら勝利感を、敗北すれば悲しみと共に敗北感を、選手と監督と、そしてバルセロニスタが一つの思いを共有する空間、それがカンプノウ。したがって、白いハンカチを選手や監督に示すことは当然ながら意味をなさない。敗北は選手のものだけではなく我々バルセロニスタのものでもあったのだから。

バルサというクラブは百年の歴史を持つクラブだ。したがって、もちろんクライフバルサだけが決してバルサそのものであるはずがない。“ドリームチーム”が作りだした時代と似たような素晴らしい時代も過去にあったし、クライフバルサが終焉を迎えようとしている時代の頃のような悲惨な時期もあった。一人の人間の長い人生のなかにおいてすべてが思い通りにいく楽しいときもあれば何をしてもうまくいかない瞬間があるように、一人の人間の歴史以上の“永遠さ”を持つクラブにおいても当然ながら良いときもあれば悪いときもある。サミティエルやクバーラがこの世を去ってもバルサというクラブが存在したように、クライフがいなくなってもバルサはバルサとして存在する。もちろん一人のバルセロニスタがこの世を去ることになってもバルサというクラブは存在し続けることになる。

1899年に一人のスイス人の提案によりこの世に誕生してきたFC.バルセロナは多くの困難な時代を経ながらも100年という歴史を作ってきた。一人のバルセロニスタが遭遇した時代のバルサが困難な状況を迎えているバルサであったり、あるいは栄光の時代を築いているバルサであったりしてきたこの100年。これからも難しい時代がくるかも知れないし、栄光の時代が訪れることになるかも知れない。だがいつの時代であろうと、バルサのイムノが示すように、バルサというクラブは世界中の人々に開放されたクラブとして生き続けることになるだろう。そう、南から来ようが北から来ようが、あるいは肌の色が違おうが文化が違おうが、クラブを愛する気持ちさえあればすべてバルセロニスタとして迎えられるクラブとして存在することになるだろう。

バルセロニスタの人生の一部としてバルサをとらえるとき、そこで初めて成功と失敗を、そして喜びと悲しみを共有することが可能となる。10万ソシオが20万ソシオに、20万ソシオが30万ソシオに、そして世界中に広がるバルセロニスタがさらに広がりを見せる限り、バモス、バルサ、クラブは永遠の存在だ。(完)