85 多くのオランダ人選手の加入(クラブ創立百周年)

ボスマン判決は多くのヨーロッパ人選手獲得を可能とし、バルサにも多くのスペイン以外のヨーロッパ選手が入団してきている。バンガールが監督を務める1997−98シーズンから最後のシーズンとなる1999−00シーズンの3年間、ヘスプ、ボガルデ、レイジゲル、シリック、ドゥガりー、リバルド、コクー、ゼンデン、クルイベル、デ・ボエル兄弟、リトゥマネン、シマオ、デウー、そしてスペイン人選手では唯一ダニといった選手が加入してきている。多くの選手がオランダ人であったり、あるいは元アヤックスの選手だったりするのが目立つ傾向となった。

もちろん、監督には守護神となるポルテロの獲得を要求する権利があるし、固い守備の要となるセントラルを要求する権利もあるし、同じようにゴールを約束してくれるゴレアドールの獲得を要求する権利もある。したがってどこのポジションの選手であれ、監督が必要とするならその選手がどこのクラブに在籍したかということは問題とはならない。普通は問題ない。そう、普通なら。だがバンガールが獲得を要求する選手のほとんどがオランダ人選手であり、その多くのオランダ人選手がアヤックス出身だとすると問題は少々微妙となってくる。

この現象をイマジネーションの不足と見る人々もあれば、選手市場に関する知識の欠如とする人もいる。だがバンガールを知る多くのジャーナリストはアヤックスというクラブでしか監督を務めた経験のない彼にとって、同じような精神面を持つオランダ人によるチーム構成が“第二のアヤックス”を構築する早道だったからだと見る。だが理由がどうであれ、多くのバルセロニスタがこの傾向に戸惑いを感じたとしても不思議なことではないだろう。物事の突如の変化が戸惑いと猜疑心を生むように、これまでのバルサにあり得なかった多くのオランダ人選手がグランドを走り回るバンガールバルサに戸惑いを感じる多くのソシオたち。

そしてそれは、彼らがかつてミニエスタディで見てきた多くのカンテラ選手の大量放出と重なって、さらなる戸惑いを生じさせることになる。デ・ラ・ペーニャ、フェレール、アモール、オスカー、ルジェー、ブスケ、セラーデス、マシア寮で育ち将来はバルサの一部選手になることを夢みて育ってきたカンテラの選手。多くの選手が加入してくれば、それまで在籍していた何人かの選手が放出されるのは当然のことだ。だが加入してきた選手のほとんどがオランダ人選手であり、放出されていった選手の多くがカンテラ選手となると、これまであった戸惑いは深刻な問題へと変化していく。誰よりもチームカラーを染みこませているカンテラ選手がクラブを去り、傭兵としてチームに加わってくる外国人選手。しかも放出されていくカンテラの選手たちがすべてクライフによって育て上げられた選手となると、深刻な問題が疑惑の問題へと変化していく。

ギジェルモ・アモールは生まれ故郷に住む両親や多くの友達と別れ、マシア寮に入ってきている。まだ12歳だった彼にとって、そして他の多くのマシア寮生にとっても同じように、新しい生活に慣れるまでは毎晩のように枕を涙で濡らしたのだ。そして、そのアモールはすでに30歳になろうとしていた。バルサというクラブに入団してきて18年が経過している。今ではカンテラの鏡として尊重される立場でもあり、多くの選手がアモールに続くんだ、そう信じながらカンテラ生活を送ってきている。その彼が再び目頭をおさえなければならない日がやって来た。バンガールの構想外選手の一人となり、クラブを去ることを強要されたからだ。
「20年近くもクラブに在籍する自分が、クラブにやってきたばかりの監督によって放出されるのは悲しいことだ。」
とは思っても、決して口に出しては言わないアモール。クライフ時代にデビューをし、試合への招集から外されてもスタメンにでられなくても、どんなことがあっても一度として問題となる発言をしたことのない彼だ。最後にもアモールらしい発言をして18年在籍したクラブから去っていく。
「いつか、そう、いつの日か、再び戻ってくることを信じてクラブを去って行こうと思う。どこにいようとも、自分の血と肌はアスールグラーナに染まってしまっているのだから。」

チャッピー・フェレールも同じようにクラブを去ることになる。彼もまたアモールと同じように少年時代からカンテラ選手としてバルサに在籍した選手だ。だが彼の場合はバルセロナ生まれバルセロナ育ちであったため、マシア寮に入る必要はなかった。彼は10歳でバルサに入団している。そしてすべてのインフェリオールカテゴリーを通過してきた選手だ。ほとんどのカンテラ選手が途中のカテゴリーでクラブを去ることになったり、あるいは途中のカテゴリーから入団してきていたが、彼はすべてのカテゴリー、つまりアレビンB・A、インファンティールB・A、カデッテB・A、フベニールB・A、バルサC、バルサB、そしてバルサの一部チームの選手として確実に成長を遂げてきた選手である。彼もまた20年近く在籍したクラブを去るにあたって、不満一つ漏らさずバルセロナを離れていくことになる。プロ選手として監督の計算外となった以上、新たな仕事場所を探していかなければならない。バルサという大きなクラブで育った彼にとって、プロ選手には感傷は許されないという、その宿命を彼もまた肌に感じていたのだ。そして、いつかは自分のクラブに戻ってくることも可能だと信じてバルセロナをあとにするチャッピー・フェレール。

だが“プロ”ではない多くのソシオやバルセロニスタにとって、彼らの息子のような存在としてあったカンテラ選手がクラブを去っていくのを見るのはとてつもなく悲しい現実となる。確かに、いつの時代にもあるカンテラ選手の放出という事実でありながら、なにゆえこれほどスッキリしないのか。それは監督と同じ国の選手が大量に加入して来たことも原因となっての多くのカンテラ選手放出騒ぎだったからだ。

ボスマン判決が生んだ新たな状況、そしてバンガール独自のバルサオランダ選手化、多くのソシオは戸惑いをバンガール批判として表現することになる。彼は時代が生んだ“悪者”であり、性格的にもこれほど批判を受けやすい監督はなかった。ここにも彼の大きな不運の一つがあった。そしてそのような状況の中で、バルサは百周年を迎えたのだ。